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発語という行為についてのメモ

誤解を恐れずに言えば、ちゃんとこれを、この難解な戯曲を自分たちの話に、自分たちにとって切実な問題になるよう取り扱わなくちゃいけないと思うんだ。

もちろん戯曲を身近な所に引き寄せて、矮小化して分かったような気になって演じてしまうなんてのはぜんぜんNGで、さりとて分からないまま後生大事に神棚に上げ奉るのでもなく、分からない。理解できないということはきちんと認めた上で、それでも懸命に相手のことを想像する。橋をかけようとする。他者でありながらどこまでも無視できない切実な相手として彼と付き合う。

例えば俳優なんか、役の台詞のことなんて本番の最中まで、その言葉を発しているまさにそのさなかまで、その言葉の本当の意味なんて分からないままでいてぜんぜん構わないと思う。(だって人間なんて、自分が何故そんな言葉を発してしまったのか。なぜこんなことを喋っているのか分からないまま喋っていることの方が多いんだから。)

ただしそのことを考え続けること。喋りながら、ときに喋っていることに後悔しながら、それでも相手に理解して貰おうと自分の言葉が相手(*ただしここでいう相手というのが自分自身であることもある。)にどのように聞こえているのか想像し続け、自分の言葉を自分でも徹底的に聞き続けること。

いちばん大事なのはその行為を相手との関係の中で、相手に対するアクションとして構築すること。(そこではとうぜんリアクションを期待しながら、のアクションになる。)

そのために、つまりどのようなリアクションを期待して、何故こんな言葉を自分が発しているのか考え続けること。ダイアローグにしろモノローグにしろ、その言葉を発せざるを得ない根拠を、衝動を抱え続けていること。(その言葉が衝動から導き出される正解そのままでなくて構わない、いや、むしろ言葉の“意味”から導き出されるそれとはぴったり正解でない方が面白いしきっと正しい。)

そういう衝動を時に役柄から導き出し、時に自分自身の人生を参照項にしつつ、しかし最終的には他でもない自分自身にとって切実なものとして台詞の背後につかまえられるかどうか、がいちばん大切なことで、少なくとも僕にとってそれが俳優の仕事だし、演出が考えなければならない仕掛けとはそのための、そういうものだと思う。

東京に戻って生活のノイズの多さに辟易している。

良し悪しは勿論あるけれど、利賀の演劇/創作に集中した環境はやはりとても良かった。べらぼうに忙しかったけどでもその中で時間がないなりに、や、あるときよりもむしろ、自分の表現のこと、演劇のこと、自分たちの集団のことをずいぶんと考えることが出来た。考える契機がたくさんあったし、思考をぐっと深めることが出来た。

東京に戻って3日。案の定疲れがどっと出ている。今日は昼過ぎから台所の床に倒れ込んで2-3時間動けなくなっていた。家人には本当に心配をかけ申し訳ない。

東京というよりこれは稽古場の話なのだけれど、人がたくさんいてそれも初めての人たちが多ければ多いほど、自然、人それぞれにリズムが違って、その人の生活の違い、世代も違えば生活環境も違って、“生”の時間の流れるその速度が全く違う。その違いに大きく影響を受ける。むしろお互いにそのことに受けなければおかしいとさえ思う。ただし気をつけなければならないのはそれは、どちらが正しいとかではなく誰の向き合い方が正しいとかではなく、違う。という、それはただひたすらに“違う”ということなのだ。

そしてそれは声を大にして言うようなことではなくとても当り前のことで、しかしそれを踏まえた上で一つの作品を作るためには、舞台上に同じ“時間の流れ”と“空間”(の手触り、世界の本質を支える“ルール”のようなもの)をきちんとみんなが共有できるように仕掛けていかなければならない。

濃密さを個々で勝手に作るのではなく集団で、アンサンブルで作ることがshelfでやりたいことの一つであるし、それこそが集団でものを作ることの醍醐味の一つだと思うからだ。

演劇をやっていれば(もちろん演劇なんかやっていなくても!)生きて、生活をしていれば人には先輩や後輩、師や弟子という人の様々な関係が自然、生まれる。しかしそれを決して舞台上に持ち込んではならない。それをそのまま持ち込むなんてクリエイティブじゃないしクダらないことだと思う。

自分も含めた誰か声の大きな人に迎合するのではなく、意に沿わないかたちで他者にあわせたり、まして誰か先達によりかかって価値判断を放棄しその人に依存するのでもなく、

作品の制作と同時進行しながらで構わない。創作それ以前の、作品世界のその前提となるルールを都度その/この集団で作っていかなければならない。それこそがフィクショナルな時間と空間を現出せしめる演劇という行為の醍醐味だと思う、し、あるいは考え方によっては、“それ以前”なのではなく“それ”こそが集団創作である演劇の価値の本質なのではないかとさえ思う。

構成台本を早く上げよう。テキストは作品世界を支える最も大きなルールの一つだ。(しかしいくつかあるうちのルールの一つにしか過ぎないということも忘れてはならない。)とまれ、一刻も早く台本を上げたい。後で変更があったらそれはそれで構わない。先ずは初稿を出来るだけ早く上げたい。

東京のノイズが煩わしい。いっそ山にでも籠りたい、とも思うけれどでもそういう考えが逃げでしかないことは分かっている。

ノイズを、ままならない生活をこそ、表現はこれを実直に背負っていかなければならないと思う。

  • 2009.09.04 (金) 02:08
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理論を媒介にして観察をしてはいけない。

講談社学術文庫 『アフォーダンス入門』 佐々木正人著、読了。

アフォーダンスという考え方には演劇/演技を考える上で示唆を受けるところが多いけれども、一方でその生態心理学者の「観察」ということについての態度からも学ぶことがとても大きい。

 なぜ行為の発達を見るときにブルート・ファクツから始めなければならないのか。その理由の一つは、はじまり(オリジナル)の動きから観察を開始しないと、結果から動きに起こっていることを説明してしまうという誤りを犯す可能性があるからだ。
 結果から行為を説明することは、人間の歴史を「未開から文明への進歩である」と考えたり、動物のしていることやその形態に起こる変異を「ある目的に近づくためである」と考えたりすることに示されるように、変化の起こっているところに、そこにあること以外のもの、「意図」や「目的」や「方向」のようなことを持ち込むことである。行為についての多くの説明は現在でもこの誤りを犯している。(講談社学術文庫『アフォーダンス入門』佐々木正人著 P160)

 ギブソンはアフォーダンスにもとづく心理学をエコロジカル・リアリズムとよんだ。エコロジカルなリアルとはおそらく「変化からあらわれる」ことだ。リアルなことは、動物の行為によってあらわれる。物についての固定したイメージ(例えば写真になった階段)を元にしてアフォーダンスについて議論することはきっと意味がない。「階段」というラベルからあれこれ思いつくことでアフォーダンスを語った気になってはいけないのだ。
 ぼくらはまだ名のないリアルについて、もう少し観察を重ねて、少しは「見えること」にしてから大切に議論する必要がある。「語る前に見よ」なのだ。そうすれば面白くなる。(〃 P218)

理論を媒介にして観察をしてはいけない。

ちょっとアフォーダンスから話がズレるかもしれないが、俳優向けワークショップや劇団の基礎稽古で、若い俳優を相手にしていていつも気になること、ある種の違和感というがあって、それはどうしても特定の俳優が、(特に半端に頭の良い子に限って、)頭で理解してから動こうとしてしまう、ということだ。

つまり、メソッドにしろ演技にしろ、彼/彼女は、指示された行為を自分で先ず言語化して、それからその行為を再現しようとする、ということなのだけど、

そんなことは不可能なのだ。

行為は、行為を行うことによってしか生み出され得ない。

「行為がつくりだしている情報が行為をコントロールしている。(P133)」

僕が稽古場で、“見る”ということがいちばん大事だ、と繰り返ししつこく述べるのも、そのとき「眼は行為を検出する装置」であって、例えば、ある一定の高い技術を習得した走り幅跳びの選手は「踏み切りの見えの光学的変化にある「接触までの残り時間」を特定する情報を利用して、地面をたたきつける脚の力を微妙に調整している(P131)」のだからであって、

「カツオドリも走り幅跳びの選手も、海面や踏切り周辺に、落下することや助走することによって独特の光学的流動をつくりだしている。これはほかでもない、落下中のカツオドリの翼のたたみ具合や、助走中のジャンパーの地面をたたく脚の力の微妙な変化によってつくりだされた光学的事実だ。この彼らの行為がつくった光学的変化が翼たたみや踏切りと言う行為を生み出す情報になる。行為の起こしていることが微妙な行為の転換を可能にしている。(P134)」

議論が少し飛躍するが、俳優に関していえば、メソッドにしろ演技にしろ、けっきょく例示されたものを(やれ! といわれたものを)出来るだけそのままに“見て”出来る限りそのまま“真似してみる”ということがとても大事なんだ。それが素直に出来ない者の多くは、徒に理論や意図、目的をそれに先行させて観察をしてしまっているのではないか。しかし、繰り返しになるがそんなことは不可能なのだ。「行為はアフォーダンスに動機付けられて始まる。(P136)」そして、「アフォーダンスを探すことを可能にしているのは、じつはアフォーダンスそのものなのである。(P135)」

やらなければ出来ない。出来ないからやれないのではなく、やらないから出来ないのだ。という、至極乱暴で、しかし考えてみれば当たり前な話も、アフォーダンスというものを通して考えてみると違った側面が見えて来てとても面白い。俳優は、やれといわれたことを先ずやってみることで、その行為を通じてその行為からその次の行為が導き出されるような、自分なりのフォーダンスを環境のなかに見つけていかないければならない。

話がちょっと脱線するけど、そういう意味では俳優の訓練というものを考えるとき、(誤解を恐れずにいえば)それは教える側からすればむしろ、子供や動物の躾け(Discipline)に近いと思っていたほうが良い。少なくとも、中途半端な対象(訓練を受ける者)への理解は、邪魔にこそなれ助けにはあまりならない。

アフォーダンスについてはもっともっと、例えば俳優の演技について、その「豊かさ」や「リアリティ」をどうすれば獲得できるのか。ということについて、経験的に僕ら実演家が知っていたことについてアフォーダンスは理論的な裏づけを与えてくれる部分がある。制作のプロセスに、具体的に寄与する知見を与えてくれる。

それは例えば、人は「行為」の曲がり角で「一挙に多くの方向に分かれた曲がり角(視覚的にはイメージ出来ないが)を行為は知覚している(P210)」。そのような、曲がり角で起こるたくさんの「微小行為(=実際には選択しなかった行為?)」を、俳優がどこまで自覚的に“切り捨てずに”保持したままに演技出来るか。というそのための方法論を考えなければならない、ということに繋がっていくのだけれども、

これは、以前に数日前にこのブログで書いた、

台詞や戯曲が予め与えられてあるとつい、下手くそな俳優、あるいは俳優一般、あるいは「俳優は(=人間は)自分の演技プラン(=自分の言動)について、言葉で説明出来るという意味で、すべてを“理解”しているべきである。」という、これはもう一種の信仰に近いと思うのだけど、そうした“いわゆる”新劇的な演技観を持っている俳優は、これを単線的に、つまり一直線につじつまのあっているものとして捉え、感情の因果関係を一義的に整理してしまう。というか、そういった割り切れる(=心理を言葉で説明しきれるような)演技を考えてしまう。

http://theatre-shelf.org/diarypro/archives/397.html

という問題(意識)にも繋がる。

僕は、僕なりの演出の方法、あるいは俳優指導のための方法として、上記のような俳優の不要な自意識を排除するための一つの問題解決の糸口として、これをちゃんと考えておきたいと思うのだ。

  • 2009.08.03 (月) 06:11
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| AK (08.04 07:55) 編集・削除

…という事は、観る方にしても、これはこういう意味なのか、などと考えるのではなく、純粋に目の前で(例えば舞台の上で)起きていることをそのまま吸収して、あとから、その目の前で起きたことがろ過されて印象なり感想になる、意味が自然と滲み出してくるのに任せる(そして何が印象として出てくるか、滲み出してくるか、というのは、その人の今までの人生によってかわる)、っていうことなのでしょうかね。

| 矢野靖人 url (08.07 06:30) 編集・削除

> AKさん

お返事が遅くなってすいません、と、コメントを有難うございます。

仰られたこと、観客ついて。誤解を恐れずに書けば、それがいちばん理想的な状態だと思います。観るということについて、何かを見るときに、何かに触れるときに、どこまで先入見なく、そのままに、ありのままにそれを観ることが出来るか。体験出来るか。

芸術鑑賞に限らず、そも、人と人が出会って触れ合う、その局面においてもまた然り、と、思います。分かっていてもとても難しいことだとは思うのですが、少なくとも僕はそうありたい、ですね。

| AK (08.07 11:05) 編集・削除

確かに、何との出会いについても、そうですね。先入観なしに、そのまま吸収できれば。

…いつも、難しいこと考えて書いてらっしゃるなぁ、と思って、今回のも、書かれた日に何回か読み返していたのですが、面白いものですね、何回か読み直しているうち、そっか、って、ぽろっと出てきたのが、先日のコメントだったのでした。お邪魔しました~

アフォーダンスについて/意識の分散・分断について

じっさい僕は、平田オリザの影響を強く受けている。それは1年半ほどの間であったとはいえ過去、自分が劇団青年団に在籍していたことがあるからだし、それ以前にも、入団以前から退団して後にも平田オリザの著作はほぼ読んでいるからなのだけれども、影響を受けていると感じるのは、特に意識の分散、意識の分断などと呼ばれる作業を行う点(及び、そのことの必要性を感じている点)についてだ。

意識の分散とは何か。

これを簡単に説明すると、放っておくと俳優の意識はつい、台詞(あるいは言葉)に集中しがちであり、言葉を喋ることに集中しがちになる。が、現実の生活の中で人間は、実際にはそれほど喋ることや喋っている言葉(台詞)そのものに対して集中していない。ではどうすればこの状態を回避出来るのか。意識を台詞以外のことに分散させればいいのだ。というのがそれなのだが、

台詞や戯曲が予め与えられてあるとつい、下手くそな俳優、あるいは俳優一般、あるいは「俳優は(=人間は)自分の演技プラン(=自分の言動)について、言葉で説明出来るという意味で、すべてを“理解”しているべきである。」という、これはもう一種の信仰に近いと思うのだけど、そうした“いわゆる”新劇的な演技観を持っている俳優は、これを単線的に、つまり一直線につじつまのあっているものとして捉え、感情の因果関係を一義的に整理してしまう。というか、そういった割り切れる(=心理を言葉で説明しきれるような)演技を考えてしまう。のだけれど、繰り返しになるが、人間の意識は、じっさいにはもっといろいろなものに分散している。

というのが、平田オリザのいう「人間は環境に喋らされている」というもので、それこそ、そこで行われている対話とはぜんぜん違う周りのものごとや、自分自身の身体の状態、などといった自己を取り巻く様々の環境(意識にとっては自分自身の身体が語りかけてくるお腹が空いた、足が痒い、などの情報も一種の“環境”だ。*01)に、人間の意識は常に振り向けられているし、いや、より正確に記せば、そういった感覚器の末端で拾われては捨てられ、生起しては分断されて、通常、意識に“顕在化”されない=統合される以前の、前意識的/無意識的な様々の衝動・情報に、人間は常に、突き動かされている。

それが日常の人間の様態だとして、では、そのような“リアルな”俳優の身体をどのように作るか。ということを考えたときに平田オリザの取った戦略が、意識の分散、とか分断と言われる作業であって、具体的に言えば平田オリザはそれを、外部から=演出家の徹底的なコントロールで以て、日常に在り得るナチュラルな(本物っぽい)身体に似せていく、というアプローチを取る。

あるいは、青年団の俳優はそのような要請に応えられるような訓練を受ける。それは例えば、テーブルの上のグラスに気を取られながら喋る、指定された台詞の特定の文節に指しかかったときに一度グラスを見て、それから相手を見ずに床に視線を移しながら喋る。とか、前の文節の終わりの音より一音高い音から喋る、0コンマ何秒のレベルで反応を前後にズラす。というように、意識の振り向ける方向や、視線の移動のコントロール、身体の所作などをいわゆる台詞の“意味”とはまったく別のレベルで、もちろん感情、喋るという行為とも別のレベルで、演技を多層的にコントロールしていくことを指す。

なんてこんなことを今さら書いているのは、最近ちょっと、アフォーダンス(という切り口をもつ生態心理学)について、きちんと学びなおしておきたいと思ったからだ。

周知のとおり、青年団は、認知心理学との協働というのをずっと以前から行っていて、生態学的アプローチの研究対象になったりしている。amazonなどで検索すれば、日本のアフォーダンス研究の第一人者佐々木正人の著作がゴロゴロ出てくるが、その中に平田オリザとの対談などもあるくらいで、現代口語演劇、特に同時多発会話などについて、その知見がアフォーダンスの研究とクロスオーバーしているということについては今さらここで述べるまでもないことだろう。(そもそもアフォーダンスの研究領域はアート全般に及んでいるハズだ。)

僕がアフォーダンスという言葉自体を知ったのは、確か大学時代に付き合っていた女性が大学院生で、彼女が教育学部で発達心理学の研究をしていてそれでそんな話になったのだったかと思うのだけど、

とまれ、本格的にアフォーダンスということを意識し始めたのは、やはり平田オリザの著作を通じてだった。

で、ここからが本題なのだけれど、この、日常に似せていく(本物っぽい人間の所作を作っていく)という現代口語演劇のアプローチには、平田オリザの影響を受けているといいながら、僕は今のところぜんぜん興味がない。興味がないというか、現代演劇において、その方法の先にあるものについて一種の限界を感じている。や、限界ではないな、限定といった方がいいかもしれない。

直感的な書き方をすれば、今のままでは、発語可能な劇言語の可能性が限りなく狭められていくように思えてならない。そして、僕が作り出したいのはもっと別の、例えば明瞭な方法論に支えられ、強い身体に支えられた様式的な演劇のほうにこそ、僕はとても興味があるのだ。

それで、アフォーダンスだ。アフォーダンスと演劇との接点は、今のところ現代口語演劇のような、日常の人間の様態に限りなくそれを近づけていくというその点にのみあるかのように語られているが、これも直感的に話をすれば、様式的な演劇、それこそ伝統芸能や、鈴木忠志、山の手事情社やク・ナウカのような「型」を用いる演劇についても、アフォーダンスという考え方は原理的に援用可能なのではないか、と僕は思うのだ。

 アフォーダンス理論の革命的なところは、意味や価値が周囲にあるということです。例えば、歩くという行為。これまでは動物の身体の性質として歩くことを研究するのが普通でした。「歩行」という意味は動物の内部にあるとされていた。ところが、歩行のアフォーダンスというのは動物に歩くことを可能にする環境の性質を指しているのです。それに名前を与えるというのが発想の転換です。山登りをすると、山肌にはでこぼこの岩場やツルツル滑るところなど、いろいろなところがあり、一歩一歩足の踏み場を探して移動していくわけです。そのとき常に自分の移動を可能にする山肌の性質を探しているわけです。もし、一万歩で頂上に立てたとすると、体重を支え、移動を支えて、一歩歩くということを可能にする山肌の意味を一万のステップそれぞれで使ったはずで、そのすべてが移動を支えたアフォーダンスなのです。これは動物の歩行の意味です。

 周囲にある環境の一部が歩くことに利用できるという見え方は、自分の身長や体重や運動能力を通して見えているので、ただの客観的環境というわけではない。動物の行動の性質と周囲の性質が共に埋め込まれたことです。わが国の認知科学研究者にこの発想が好まれているようです。

Talk -対話を通して-:心理学の新しい流れ-生態心理学:佐々木正人×中村桂子
http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/35/talk_index.html#5

型や様式を用いる演劇、つまりメソッドや訓練・鍛錬によって自らの身体に型や空間を“棲まわせる”タイプの演劇は、例えばここでいう「歩くことを可能にする環境の性質」の一つとして、単に日常に存在する外部環境だけでなく、身体の内側により強い、フィクショナルな機構として型を組み入れることで、特異なアフォーダンスを自らに恣意的に組み入れているのではないか。その結果として、例えば「歩く」ということの価値、というか強度を高めていこうという行為が、型や様式と呼ばれるものなのではないか? と思うのだが、

どうなんだろう。誰かそういう観点で古典芸能などを研究している研究者がいればと思うのだけれども。

と、つまり、何が言いたいのかというと、意識の分散、ということを考えたとき、実はそれは必ずしも「現代口語演劇」で見られるような、演出家の徹底した外部からの管理にのみ、その方法を頼る必要はないのではないか。ということがいいたいのであって、もっといえばひょっとすると「現代口語演劇」以降の現代演劇において、改めて型や様式を取り入れることの最も現代的な意義は、実は、型や様式を取り入れることによって、意識の分散、分断――という、これは作業行程と言うより型や様式を取り入れた“結果”として生じるものなのだけれども――を、演出家に頼らずに俳優一人の力で獲得し得るのではないか。

と、思うのだ僕は。勿論、そのためには相当な訓練が必要とされるのだけれども、自分たちの現場に話を繋げると、そういう意味で、意識の分散、意識の分断などという状態を結果として導き出せるよう、メソッドや「語り」の話法などを用いつつ、型や様式を用いる表現に「現代口語演劇」が獲得したリアリティ(=本物らしさ)をもう一度、継ぎ直すことができるのではないか。ということを、今、僕らは模索しているのだと言えるのかもしれない。

そう、だから誤解を恐れずにいえば、そういう意味では、僕らがやっているのは広い意味でリアリズム演劇だと言えなくもないんだ。


*01 一点、アフォーダンスという概念のなかに、果たしてここで書いたような、「意識に対しからだの内側から語りかけてくる声(情報)」をも含みうるのかどうか。このへんのことはまだちゃんと調べていなくって、正確なところはよく分かっていない。ただ、以前にこのブログにも書いた「発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい」(綾屋 紗月、熊谷 晋一郎(著))という本から、(この本ではアフォーダンスという概念を援用して、自閉症などのパニックの原因について、当事者の立場から外界のモノが話しかけてくる声=アフォーダンスが飽和することが、その原因になると分析している。)僕の考えが多分に影響を受けていることは補足しておきたい。


さまざまなレイヤーで乱立し混濁した人間の意識や身体からの情報、外部から入力される情報を逐一徹底的に細分化して捉え、階層ごとに捉え直し、それを統合して欲求や行動に移すまでのプロセスをとても丁寧にたどっている。のだけど、(なぜなら彼女の場合、そうしなければ生活すること自体すら困難だったから。)それって俳優の、 「意識の分散」 や 「再現」 に必要なプロセスそのものなのではないか。

http://theatre-shelf.org/diarypro/archives/340.html

  • 2009.07.26 (日) 12:35
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「ちいさなエイヨルフ」 の「テーマ」 について

4月30日からにしすがも創造舎に入って、2日にOFFがあった以外は毎日、13:00~22:00と一日稽古をしている。昨日で4日目。劇場入りまで今日を入れて残り13日。

新しいキャストとは、オリジナル戯曲のテーマ、登場人物の抱える問題や欲望についてなど意見を交換し共有しながら、それと並行して同時に、shelfのスタイル、舞台上での居方について少しずつルールを共有していくという作業を続けている。

前者は作品のモチーフ(内容)の検証、ドラマについての思考を深化させていく作業であり、後者は 「形式」 の検証、シアター(劇場体験)のための方法を共有する作業だ。後者についてはしかも、ただ形式を共有するというだけではなく、その形式をよりシンプルでクリアなものに鍛え上げ、作劇において有効に作用するよう錬度を高めていく作業も兼ねているので、実演とフィーバックのための言語化、方法を意識化するためのワークショップ的な作業を毎日、稽古場で繰り返している。

ところで今回の作品のテーマについて。shelfの 「ちいさなエイヨルフ」 では、イプセンのレトロパースペクティブというドラマツルギーを拡大援用している、という話は前にも書いた。

 稽古を再開しています。
 http://theatre-shelf.org/diarypro/archives/173.html


俳優が現前し、発話するという行為を以て明示的に 「過去」 を描くのが演劇の特性だ、という考えは変わらない。今後制作する作品もずっと同じかと問われれば、ひょっとするとそれは変わっていくこともあるかも知れないけれど、今回の作品は「すべて終わってしまった」あとの物語だ。

ただ、昨年10月には、この戯曲は 「一組の夫婦の、あるいは母親になれなかった女の、あるいは―――ひとりの男と、男が失ったすべてのものについての物語」 なのだ、としたところ、少しだけ変わって来ていてるところがあって、今回の再演に関していえば、 「一組の夫婦の物語。―――立ち止まる、振り返る」 がこの作品の 「テーマ」 だ。

いや、正確には、テーマが“違って来ている” のではない。“より自分に正直な設定へとテーマを変更した” のであり、だから違うものになったのではなく、より深まった。よりクリアになったのだという気がしている。自分の中で、作品のテーマ=舞台で伝えなければならない「感覚」が、この変更によってより明瞭になったのだ。(だからそれだけ、言葉としては一般には伝わり難いテーマ設定になっているという自覚もある。)

これは、岸井さんのワークショップで教わったことなんだけれど、 「テーマなどの複雑な情報は構成感覚を利用することによってしか表現できない。ここに時間表現が必要とされる理由がある。」という考え方があって、 これにはとても勇気づけられた。というか、自分のやるべき仕事が自分の中でとても明確なものになった。作品のテーマを言葉で伝える必要はぜんぜんないのだ。それは観た人に伝わりさえすればいい。

ところで、この 「テーマ」 について。では、共同制作するパートナーである俳優たち、スタッフたちとは共有する必要があるのだろうか。

もちろん、ある。

ただ、それについても、言葉で伝える必要は実はぜんぜんないのだと思う。僕の 「作品」 の 「テーマ」 は言葉では伝わらない。 「作品」 を通してのみ、 「テーマ」 は伝わる。のだとしたら、稽古場での僕の振る舞いがすべて 「作品」 になればいいのだ。

言い方を換えれば、コミュニケーションの方法は言語だけではないということ。コミュニケーションにはいろいろな方法があり、そのような言語以外のコミュニケーションをちゃんと、稽古場で俳優ととることが出来ればいいのだ。そして交換を通して 「テーマ」 を共有することができればいい。

  • 2009.05.05 (火) 11:01
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| ysht.org url (05.05 11:07) 編集・削除

追記

このエントリーで書いたことについては、書いている最中に書きながらリアルタイムで自分の作業プロセス(=やるべきこと)がとても明瞭になった。

そうなんだ。戯曲「小さなエイヨルフ」を書いたイプセンの「テーマ」と、その戯曲を「モチーフ」に制作しているshelf作品「ちいさなエイヨルフ」の「テーマ」とは、全く別個のものであってかまわないのだ。というか、同じものには絶対にならない。それらを混同してはいけないのだ。