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有度サロン講座とスズキメソッドのデモンストレーション+レクチャー(1)

今日は昼から静岡。SPACでクローズの有度サロン講座を聴講させて頂く。16:15~鈴木忠志さんの講座があって、それを踏まえて19:00~スズキメソッドのデモンストレーション+レクチャー。

とても面白かった。先週日曜に行われた公開講座「現在の演劇状況をどうみるか」が面白かったので、今週も聞かせて貰おうとやって来たのだが、非公開の有度サロンが非公開なだけあって突っ込んだ話題も多く、しかし、それでいて演劇人ではない観客も多かったからか内容も内輪にならない、とても開けた語りで。

「演劇の身体を規定するのは戯曲(言葉)ではなく空間そのものである。」という観点から、観客席の中心にデュオニソスの神官の座る席があったというギリシア演劇の劇場空間、それを室内空間に置き換えた近代初期の劇場、神に奉じるための日本古代の神楽の様子や、能や歌舞伎の舞台に関する写真、新劇の舞台写真(三島由紀夫「サド公爵夫人」の初演時の写真や千田是也扮するイプセンの登場人物、チェホフの舞台写真等)と、その一方で同時代に行われていたロシア演劇でも、ロシア人が(スタニスラフスキーが!)日本人に扮したような芝居をやっていたことがあったらしくその舞台写真なども紹介して貰った。これがめっぽう面白かった。そのような、所謂リアリズム演劇が行ってきた“失敗”も含めた当時の舞台写真などを資料にしつつ、それに対して、ギリシア悲劇や谷崎潤一郎の言葉、三島由紀夫や、井上ひさし、平田オリザの戯曲の言葉とを配置。空間と言葉とを比較しながら、舞台上に在り得べき演劇の、「虚構としての身体の変遷」を説明していくその流れはもう、圧巻の一言。

この他にも、例えば、

演技=人に身体を見せ、言葉を聴かせそれを以て他者と議論を行おうというもの。そのような、他者に身体を見せたい見られたい、言葉を聴かせたい聴かれたいという根本的な衝動(=他者に出会いたいという根本的な衝動!)が人間には在って、(だからこそ「信仰等しからざる人に出会ったときに演劇が生まれた。」)メールやインターネットの発達のように身体を隠す方向への衝動が強く働いている昨今の社会情勢にあって、しかしこの、他者に身体を見せたい、言葉を聴かせたいという衝動は根本的になくならないのではないか。(=だからこそ、社会にとって演劇は必要であり続ける。)という考え方や、

芸能=共同体内で価値を認められるためのものであるのに対し、芸術とは価値観の異なる共同体に橋を架ける戦いである。よって、芸術は他者性を前提としている。

等々、全編を通し非常に刺激的な考察に溢れていた。

そしてその歴史認識から出発して思考された、演技様式の探求と、そのためのトレーニング方法の開発・実践。

講座の骨子がコンパクトにまとめられたレジュメが配布されたので、ちょっと長くなるけど紹介したい。

演劇活動によって追求した三つの問題

鈴木忠志

 一、ヨーロッパ文化の受容の仕方の問題

 明治政府は日本の社会をヨーロッパ化する政策の中で演劇改良、いわゆる歌舞伎の近代化を計ろうとしただけでなく、舞台芸術全般を管理下に置こうとした。1872年(明治5年)およそ次のような内容の通達を出す。

1 上流貴紳淑女が見てもよいように卑猥、残酷を差し控える。
2 俳優、芸人を教部省の監督下に置き、教導職に任ずる。
3 史実を歪曲せず忠孝、武勇、貞節を主題とすべきこと。

 これが第二次大戦終了までの日本における舞台芸術全般に対する思想的風紀的弾圧の根拠となると共に、伝統演劇の発展を阻害する要因となる。

 一方、ヨーロッパの演劇を規範として、日本の伝統演劇と断絶した新しい演劇を創造しようとする、学者や小説家を巻き込んだ民間レベルでの運動が起こる。新劇と言われる演劇はここから始まる。この運動の重要な2人が坪内逍遥と小山内薫である。

坪内逍遥 ― 素人を役者にする。歌舞伎役者と断絶し、シェイクスピア上演を通して伝統演劇を継承する。舞踊性、音楽性を重視する歴史劇。
小山内薫 ― 役者を素人にする。歌舞伎役者にヨーロッパ近代劇を演技させ、歌舞伎と断絶する。文学的、写実的演劇。

 1924年、小山内薫らにより建設された築地小劇場は、ヨーロッパの翻訳劇上演を主とする新しい演劇運動の拠点となる。このときに演劇の目指すべき模範としてヨーロッパ19世紀の演劇スタイル、近代リアリズム演劇と称されるものが強く意識される。代表的な作家はノルウェーのイプセンとロシアのチエホフであり、演技の方法はモスクワ芸術座の創立者スタニスラフスキーの確立したスタニスラフスキーシステムに依拠した。第二次大戦後に隆盛になった新劇と呼ばれる演劇はこの流れである。

 私はこの新劇の批判的な検証をとうして、世界性を持ち得る日本の現代劇を創ることは可能かを課題とした。

 二、集団形成のルールは何かという問題

 演劇は個人芸術ではなく総合芸術と言われる。それは一定の場所を集団的に占拠し、その集団の事業目標が実行される活動である。この集団を長期に結束させ活動を持続させるとしたら、この集団の所有するルール=共同性の質は何かが問題とされる。言い換えると、価値観と規範の共有、それに集団の経験と伝承のシステムが在るのかが問題となる。このときもっとも重要になるのが劇場の存在とその建築様式であり、演技のスタイルである。さらに公共政策によるこの集団の形成、そしてその集団の事業目標にのっとった理念による事業遂行の場=劇場の建設と運営は可能か、これを課題とし追求した結果が利賀や静岡の活動である。

 三、日本人の身体と日本語の独特な関係の問題

演技は身体を見せ言葉を聴かせる活動である。そして集団の願望を現実的に実現しようとする。その目的のために動物性エネルギーを非日常的に消費し、身体を動かしかつ日本語を音声化する。この瞬間の身体と日本語の独自な関係は何か、劇場という場に集まる人たちに効果的に作用する演技はどうあるべきかが問われる。端的にいえば、演技スタイルの確立とその訓練方法をどう考えるかである。この点についての私の実践的な応答が、スズキメソッドと言われる訓練の方法であり、それを前提としてなされる演技である。

(続く)

  • 2008.11.29 (土) 22:13
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  • Yasuhito YANO

そしてけっきょく表現をするということは、

そしてけっきょく表現をするということは、“言い切る”ということだと思う。あるいは、判断するということ、一歩踏み出すということ。

それは、少なくとも自分は安全な位置にいながら、それはこうとも言えるしああともいえるね、なんてわかったような気になって悦に入っていることではない。(なぜならそれは“言い訳”に過ぎないのだから。)

そして、もっと重要なのは、断言しつつも(自分が断言した)その一言では、“すべては言い得ない。”ということを、誰よりも厳しく自覚しているべきである。ということだと思う。

つまり、絶対に語りえないことについてこそ、語らなければならないということだ。

  • 2008.11.28 (金) 00:26
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  • Yasuhito YANO

つまるところ定立しなければならないのは

つまるところ演劇が定立しなければならないのはけっきょく集団としての形式なのだ。

形式というか様式というかフォルムというか。

このことは以前から繰り返し主張して来ていることではあるけれど、ただ、以前と少しだけ考えが違って来ているのはその形式というか様式というかフォルムというか、が、集団に確立されて後にはその形式というか様式というかフォルムというか、は、後景に退かなければならない。と、僕が今、考えていることだ。

後景に退くというか、定立して後にはそれは忘れられなければならない。少なくとも目的であったりモチーフであってはならないと思う。

必要なのは劇団だが、劇団の目的はその存続では決してない。

(なんてそんな至極当たり前の話をしなければならないのは、今の世の中に劇団と呼べる劇団があまりにも少ないからなのかも知れない。)

  • 2008.11.28 (金) 00:23
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  • Yasuhito YANO

国際演劇交流セミナー2008 ノルウェー特集

11/22(土)18:30~@芸能花伝舎で演出者協会の主催する、国際演劇交流セミナー2008「ノルウェー特集」に出席する。

劇作家・演出家のレーネ・テレーゼ・テイゲンさんの来日にあわせて企画されたもの。ゲストスピーカーにストックホルム在住劇団民芸所属の俳優・小牧ゆうさん、坂手洋二さん。

坂手さんがこの秋に招かれたイプセン・フェスティバルのことや、スカンジナビアの演劇状況が知りたくて参加。


ファイル 214-1.jpg

さすが福祉国家らしい厚遇された創作条件、芸術を享受出来る社会環境は羨ましい限りなんだけど、言われてみれば確かにそれはグローバルな社会格差に支えられたものかもしれない。なんてことを坂手さんの話を聞いていて考えさせられた。(さすが小劇場界きっての社会派。聞かれていない新国立の批判とかまで始めてちゃって、アジるアジる。苦笑)

具体的な演劇を取り巻く状況については、話を聞きながらつい、日本の俳優についてのことばかり考えてしまった。

スタンダードな俳優教育が確立されていない(その必要性さえなかなか問われることのない)日本で、如何に俳優と付き合っていくか。俳優を如何にして育て得るか。

興味深かったのは劇団朋友の女優さんたちが(レーネさんは今回、劇団朋友「9人の女」演出のために来日した)エキシビジョン的に見せてくれたリーディングで。

上手いとか下手とかでなくなんというか、座って聞いているとまるで吹き替えの海外ドラマの音声だけを聞いているみたいで、つい、笑ってしまった。(他意、というか悪意はないです。悪しからず!)

しかしこれは、いったいどういうことなんだろう。

大学で制作した自主映画を批判されてから様々なドラマトゥルギー(劇構成の方法)をそれこそアリストテレスからレッシング、ハリウッドのシナリオ創作法から叙事詩から歌舞伎まで片っ端から学んで、「フォルムと内容は密接に関わっている」という考えに至った彼女が書いた実験的な(それでいて19世紀イプセン以来のリアリズム演劇の系譜にある俳優たちのために書き下ろした)作品を上演するに当たって、彼と是との間には、齟齬は生じなかったのだろうか。

劇団朋友の彼女たちの演技は決してリアリズム演劇ではなかった。いや、“日本的な”「リアリズム演劇」ではあったのかもしれない、しかしそれがナチュラルでリアルなドラマと見えるかと云えば決してそうでない。少なくとも僕は、その表現に少なからぬ違和感を持った。

決してリアルな、日本語の話し言葉ではないそれがあたかも日常のリアルな対話のようにそこでやりとりされている。と言って例えば落語やコント、漫才のように戯画化され、批評的な距離に晒されているわけでもなく、半ば無自覚なままにそれはそこに平然として在って。

別に「静かな演劇」を擁護するわけでもないが、彼の表現は彼の表現として、ある種の特異なスタイル=様式であることに(少なくとも平田オリザと青年団の表現のレベルにおいては)相当に自覚的であった、だからこそ、批評性がそこに介在することになって、表現として確かな強度を持っていたように思う。(それゆえ、それを模倣するだけの似非現代口語に対しては、僕はどうしても否定的な見方せざるを得ない。)

そうか。けっきょくは、確かめられるべきはやはり、(自らの表現との)適切な距離なのだな。

modelTで試している<語りの方法>にしろ、先日の演劇ラボで発見した? 演技の質に関する新しいワークショッププログラムにしても、キーになるのは「距離」だ。

そのことは、今、ここに書きとどめておいて間違いないように思う。

というわけで、明日は朝から静岡です。

有度サロン公開講座で、鈴木忠志さんと管孝行さんとの対談を聞いて、宮城聰演出の「ハムレット」を観てきます。

『空間の変移』
鈴木忠志(演出家、劇団SCOT主宰、前 静岡県舞台芸術センター芸術総監督)
http://www.spac.or.jp/08_autumn/salon.html

『空間の変移―ギリシア悲劇から現代劇まで
 言葉と身体の関わり方を軸として』

二千数百年前にギリシアに発祥をみた演劇という制度、そこで意識された言葉と身体の在り方から、日本の世阿弥を経て現代劇に至るまでのさまざまな言葉と身体を軸にした空間感覚?デジタル文明の中で変容を迫られている空間感覚はどのようなものであるか、私の作品に則しながら、身体の現在を日本の劇場という場の在り方の問題点とともに論じてみたい。

11月23日(日)10:30 舞台芸術公園 稽古場棟「BOXシアター」
対談者=菅孝行(演劇評論家)

SPAC秋のシーズン2008「Hamlet ハムレット」
作/シェイクスピア 演出/宮城聰
http://www.spac.or.jp/08_autumn/hamlet.html

ファイル 214-2.jpg

  • 2008.11.23 (日) 01:26
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  • Yasuhito YANO

vision

6月頃に書きかけて、中途でアップしそびれていた記事ですが。

ちょっと思うところがあって、このところこれについて考え直したりしていたので、とりあえず手を加えずにそのままアップしておきたいと思います。自分の思考の、プロセスの記録として。

中段に書いている時代に対する閉塞感、問題意識云々はともかく、自分たち(の表現)にとっては最終段の「書き言葉の舞台言語化」をこそ、改めて、これからのshelfの活動の主要テーマとしていきたい。

そんなことを今、考えています。

「意識」や「無意識」の領域に属する身体の可変的な諸要素をどのような手続きで作劇の過程に配置するか。あるいは、演出家としてその視点においてどのように対象を捉え、構成に際し、如何にしてそれらを手懐ていくか。(手懐けようとするか。)

ここ数年、shelfは古典作品の上演にこだわり続けています。それはひとえに今の私たちの実感、即ち――昨今、どこの劇場をのぞいても小劇場と呼ばれる領域では、特定の若い世代の日常/若い世代の特定の感覚を代弁し、共感するばかりの演劇が溢れ過ぎてやしないか。――という、時代に対する閉塞感、問題意識によります。

あるいは、分かり易いものばかりを称揚する風潮。時代意識の欠落により、芸術を、いや人間を思考することにおいて、視野狭窄に陥ってやしないか。

書き言葉である台詞を自分の実感にひきよせることで安易に話し言葉とするのではなく、書き言葉としての強さ、濃密さを出来るだけそのままに、発話するための方法を獲得する。

その上で、そこに――発話された声にリアルでナチュラルな人の意識の流れや感情の変化を注ぎ込んで、肉厚なドラマを構築したい。

このとき、キーになるのは「語り」の話法だと思う。

形式としてフィクスされた"書き言葉"から、如何にして時代を表象しうるような、新しい"話し言葉(=語りの形式)"を構築するか。あるいは、そのことによりただ日常の身体に擬態するのみでなく、よりアクチュアルで豊かな舞台における身体言語・表現を獲得したい。

私たちshelfは、このことを当面の課題とし、新しく、自分たちにユニークな演技における方法・様式の確立を目指します。

  • 2008.10.28 (火) 23:08
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  • Yasuhito YANO