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稽古場写真 1/2

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稽古場で写真を撮って貰いました。

撮影は原田真理ちゃん。写真を撮って貰ってから稽古後に一緒に焼き肉を食べに行ったんだけど、まー坊との付き合いも彼女が札幌にいたころからだから、数えてみたらかれこれ10年近い付き合いになるのだった。いつも無理をいって仕事の合間にゲネの写真やら稽古場の写真をお願いしてる。とても頼りにしているスタッフの一人。

そういえば結婚式の写真も彼女にお願いして名古屋まで来て貰ったんだったっけ。


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最後の一枚はいつの間にか撮られてたもの。差し入れで戴いた葛湯(Tさん有難う!)を溶いてるところなんだけど、稽古中より休憩中のほうがイキイキしてるというのは如何なものか、演出家。

  • 2010.02.09 (火) 08:08
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  • Yasuhito YANO

新作の段取りを無理やり最後まで付ける。/俳優の持っているべきイメージについて

本番小屋入りまで16日間。明日から4日間はエイヨルフの稽古だけになるので、と昨日は無理やり最後まで新作の段取りを付ける。構成台本の0(ゼロ)稿が上がってから4日目のことなので過去最短だ。(初稿は昨日配布した。)

段取りだけ先に付けるというのはどちらかというと普段あまりやらない作業。本当は出来ることなら出来るだけ緻密に芝居の最初から時間軸を追って構成を組み立て、意識の流れや視線の配置などを定着させていきたい(そのうえで最後のシーンがどうなるのか、流れの中で見極めたい。)ほうなのだけれども、俳優にとっては全体像が見えていたほうが、自主的な時間の過ごし方も有意だろう。と思ったのと、音響のまやさんに見て貰える日数が本当に限られていたから無理にでも最後までかたちを作っておきたかったのだった。

でもまあ悪くない手応え。もちろんぜんぜん出来てないシーンもあるのだけれど、出来ていないのがどのくらいで、最低限あと何をしていけばいいのか、把握できたのは良かった。俳優も俳優なりに把握してくれていることと思う。今日、時間を見つけてどこかで確認作業をしよう。

けっきょくのところ現代口語は “言葉をどこまで身体に近いところから発語できるか” に勝負がかかっていると思う。特に夫婦二人の会話のシーン。一見取りとめのない会話ばかりなのだけれど、だからこそというか、夫婦であるがゆえにその背後にある物語、共通体験がどれほど多くそこに隠されているか。それがあって出てくる軽さと、表面をなぞるだけの軽さは絶対に違う。

例えば、

「おまえは大丈夫だよ。胃袋が鋼鉄でできているんだから。」
「そんなことありませんよ。」
「放射能を食ったって壊れやしない。」
「壊れますよ。」
「核廃棄物だって処理しちゃうんだから。」
「処理しませんよ。人間なんだから。あなたはどうなんですか。」
「俺のはビニル袋みたいなものだよ。」
「まあ素敵。」

なんて他愛もない会話があるのだけれど、その会話の背後には絶対に、例えば同じものを食べたのに妻はお腹を壊さなかったのに夫だけ腹を下した、とか、そんな何かしらのエピソードみたいなものがあるはずで、それについての、それは勝手なイメージでいいんだけれど、絶対に“具体的な”イメージ**(というかビジョン? 少なくともそれはイメージって言葉だけでは足らない。誤解を招く恐れがある。そこには身体の衝動や、各感覚器官の末端に立ち現れる言語化される以前の様々な一次情報も含みうると思う、だけど取り敢えず分かりやすく言えばイメージとしかいいようのないようなそんなもの)を、発語に先行して胸の中にどれだけ豊かに持っていられるか、持っていながら言葉を発することが出来るか。

言葉に発せられる/出来るのはコミュニケーションのほんの氷山の一角にすぎない、ということをどこまで実際的に身体でつかまえられるかどうか。

(**ここで触れている“イメージ”については、チェルフィッチュの岡田さんもどこかで誰かから指摘されたと書いてたけどそれは、“シニフィエ”と言い換えてもいいかも知れない。それはソシュールの言語哲学の用語なんだけど、)

それにしれも方法や目指すところが違うから普段あまり気にとめないのだけれど、こういう時ばかりは例えばチェルフィッチュの岡田さんが稽古場で俳優とどういう作業をして来たのだろうか、ということがとても気になる。(そんなに数を見ているわけじゃないし、いちばん最近のはアジア舞台芸術祭のショーケース作品を見ただけなのだけれど、)チェルフィッチュの俳優は本当に身体に近いところから言葉を発するのが上手い。演じていない、と言うと嘘になるのだけれど、少なくとも他者を表象しているようには見えない。といって、自分の言葉かというとそれは絶対に違うのだけれども。

今日からエイヨルフ再演の稽古。こちらは今取り組んでいる新作と違ってここ数年 shelfが取り組んできた様式/方法の集大成のような作品。なんだけれども再演とはいえ“作品”は常に、“今・ここ”にアクチュアルなものにしたいのできっと微妙に作り直してしまう部分も出て来ると思う。こればっかりは稽古をしてみないとわからない。

の山根さん、ユニークポイントに客演していたケイスケらが稽古に合流する。久しぶりに彼女らと一緒に作業できるのがとても楽しみだ。

  • 2010.02.01 (月) 08:49
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  • Yasuhito YANO

言葉の冗長率

今日から昼夜一日稽古が本番まで続く。しかも2月1日からは再演と新作の二本立ての稽古。日によっては前半エイヨルフ、後半鈴江俊郎なんて日もある。体力が続くかどうかが本当に心配だ。明後日から始まるエイヨルフ再演の稽古は稽古時間が極端に少ないので、出演者はみんな個人的に稽古の合間を縫って、過去の台本の自分のメモや演出のダメ出しをチェックしたりDVDを見たりして台詞や段取りの確認を行っている様子。

昨日は一昨日急に一人俳優に病欠が出て進められなかった新作構成台本の読み込みを行った。だいたい半分までチェックが終わったかな。今日はもう半日かけて同じ作業を行って、そのあと立ち稽古に入る予定。

現代口語は古典や近代戯曲に比べて言葉の冗長率が極端に高い。(簡単に言うと発語される語句に意味のない無駄な部分が多い。)ので、その分、何でもないような台詞の遣り取りにもその底流にきちんと、人の心の機微というか、表だっては現れない人と人の間の深いコミュニケーション/意識のj細かな流れなどの情報を丁寧に流し込んでいかないと、時間がなんとなく流れて行ってしまう。

より具体的には、一見無駄に見えるような言い淀み、言い間違い。口をついて思わず発してしまう言葉や思いに言葉が足りなくてつい付け足してしまう余分な言葉などが沢山あって、その間を埋める「え」とか、「あ」、「や」みたいな、その言葉それ自体では「意味」をなさない語句がその分かえってとても重要な価値を帯びてくる。場合によっては敢えて「あ、」「え」とかって語句を戯曲に足したりして読みを進めている。

もちろん言葉の背後にある人間の意識の流れや感情の起伏、それに伴う身体の変化などは、近代戯曲を演じる場合のそれと基本的には同じで、俳優の作業はそれとあまり変わらない。はずなんだけれど、なんだけど、やっぱりパフォーマンスの質感というか、演技の手触りがだいぶ違う。演出としても現代口語を扱うのは久しぶりなので、(といっても厳密な話をすると鈴江戯曲は所謂「現代口語」ではないのだけれども、)いろいろと戸惑いつつも、そんな作業を楽しんでいる。

演技をナチュラルに、日常と同じようにすればいいかっていうと全然違ってて、これもやっぱりある種の様式性をどこまで獲得できるか、という問題。日常に近いけど、日常とはまた違った手触りの、そんな静謐な時間の流れる作品にしたいと思っているのだけれども。

  • 2010.01.30 (土) 09:55
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  • Yasuhito YANO

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