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「鈴木忠志 オペラを語る」

先日観に行ったオペラ 『椿姫』 の当日パンフレットに掲載されていた鈴木忠志の文章がとても面白かったので転載。後半の 「舞台芸術の現状と制度について」、あるいは 「地域の可能性について」 も面白いけど、「総合舞台芸術としてのオペラについて」 の下りが目から鱗だった。日本のオペラに感じていた違和感を代わりにスパッと言い切って貰った感。


鈴木忠志 オペラを語る

総合舞台芸術としてのオペラについて

 私は、オペラの曲は好きなものがいくつかあるんですけれども、実際にオペラを見に行くことは最近はあまりないんですね。特に新しい演出のオペラというのは見ない。私は照明も衣装も装置も、必要があれば自分でデザインを考える演出家ですので、舞台の統一感がないオペラほどイライラするものはないんですよ。たとえば、バレエや能や歌舞伎も台本は退屈ですけどね。一応そこには総合的な舞台芸術としての統一感があるから見ていられる。縁者の動き、音楽、衣装、装置などの一体感があるんですが、最近のオペラは音楽と身体の動き、あるいは演出のアイデアが分離していて、出来そこないの空間が多い。それを新しい演出などと称していることがあるんですよね。不思議なのは、私の考えでは、オペラこそ音楽を軸にした総合的舞台芸術ですから、歌い方がそうであるように身体の動きも人工的に洗練された高度な抽象性を持たないといけない。ところが、演技はどんどん日常に近づいて、私などが批判してきたナチュラリズム、自然主義的演劇の動きをしていて、普通の演劇よりもだらしない視覚空間になることが多い。客席でそれを見ないように目をつぶると眠くなって寝てしまう(笑)。それで、これまで演出を断ってきたし、劇場へも行かないようにしたんです。隣の人に迷惑をかけないようにと思うと、おのずと足が遠ざかる。

『椿姫』 の魅力について

 これはねぇ、ストーリーは一時代前の日本人好みの純愛物語で、ばかばかしいんですが、なんといってもヴェルディの曲がいいし、こんなたわいもない話をもとにして、こんな音楽をつくったヴェルディという人の集中力の異常さに興味をそそられるのです。私は小説でも戯曲でも、作品そのものではなく、その作品をとおして感じた作者という人間の精神状態に興味を持って舞台化しようとするんです。ですから、今回の主人公もヴェルディです。そのヴェルディが、フィクションとしての憧れの女性をつくりあげていくときの手つきを舞台化しています。ヴェルディの場合、フィクションとしての女性は音の中に閉じ込められて成り立っている。その集中力に舞台芸術家としての私の集中力が空間に結実し、拮抗するかどうかですよね。これは技術の問題ではなくて、それぞれに違った時代を生きて、フィクションというものに命を賭けている芸術家同士の対決の仕方の問題なんですけどね。この作品でも、“世界は病院である”という私の舞台の主調音は浮き上がるようにしているつもりです。

舞台芸術の現状と制度について

 この歳になって何を言ってもはじまらないと思ってますけどね(笑)。ただ、実践あるのみなんですが、あえて言えば日本の状況は絶望的でしょう。それは、才能のある優れた人がいないという意味ではない。日本の舞台芸術を創造する制度が根本的にダメだということです。今の政治状況と似ているかもしれませんね。今の政治家は口では上手いことを言っても、ちゃんとした指導力が発揮できない。実効性のある大きなヴィジョンを生み出せないのは、行政という事務組織に長く依存して、大きな目標を実現するための制度作りをしてこなかったからです。だから国民には政治家が嘘つきだと見えるし、官僚もずる賢く見えてしまう。舞台芸術界を見ても大きな目標がない。口ではみな上手いことを言っていますが、たいていは、ただ話題になりたい、金儲けをしたい、生活ができればいい、こうすれば補助金が出てくるという程度の考えで活動しているから、歌手や俳優はもとより、照明家でも装置家でも世界水準で育っていかない。特に行政と一緒に仕事をしている芸術家は、官僚という予算を握っている人に依存しているうちに自分も官僚化して、クリエーター、芸術家ではなくなってしまいますから、先行きは暗いですよ。まあ、芸術家というのは、根も葉もないことに夢中になる人たちで、よくいえば精神や感受性の冒険家です。芸術家は地位や職業ではないから、うまく位置づければ公共財になるし、民族、国家、いや人類の誇りにすることもできる(笑)、という文化行政というか文化予算の裏付けがないとダメですよ。しかし、オペラや演劇好きの日本人、また日本の官僚や政治家にそこまでの視野や度量はないでしょう。事業仕訳けという発想は面白いけど、仕分け人とやらの議論をみればよくわかる(笑)。文化政策や制度設計がどうあるべきかを前提にしていないから、すぐに金銭の問題だけになる。議論の手順が逆でしょう。あえていえば、一時期の日本の経済力だって、日本人が蓄積した歴史的な文化力があっての成果ですよ。

地域の可能性について

それはあるでしょう(笑)。唯我独尊的にいえばね。要するに、日本の芸術家、まあ経済人や政治家でもいいんですが、人間の本当の贅沢ということを考えていないんですよ。贅沢というのは、金の問題ではないんです。時間をまず自由に使えて、自分の設定した目標に没頭できる環境が作られているということなんです。それから、それを支える人間関係、精神的な同志がいるという実感を持って生きることができるということなんです。もう東京にそんなものはできませんから、日本は国際的にはあらゆる面で地盤沈下していきます。東京ではあらゆる同志的集団が壊れてしまっているから、“個人”が“孤人”になって、バラバラに動くしかない。政党だって、官僚組織だって、宗教集団だって、最初は同志の集団ですよ。教育の現場ももちろんそうです。その集団がしっかりとした目標をもって行動し、その結果が嘘にならない、なんてことはもうないでしょう。総合芸術は、もっと精神的な強固な同志性を持った集団でないと、優れたものは生まれません。そういう意味で、時間、環境、人間関係の豊かさを保証するわずかな可能性が残されているのが地方だと私は思っているんです。実際に、静岡県はこれだけのオペラを創ることができるのだし、富山県の利賀村というたった700人しかいない村でも世界演劇祭ができているんです。そこに世界の一流の舞台芸術家が集まってきています。皆さんが知らないだけですよ。

  • 2009.12.14 (月) 10:13
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帰京

ファイル 461-1.jpg

静岡から戻りました。

shelfの本公演とはぜんぜん関係ないのだけど、公演が終わってすぐ、なか3日だけ開けての静岡は、この秋の長いひとつながりの旅の終わりのように感ぜられて、9月から続いた一つの旅にようやく区切りついた感じです。

shelf公演だけを考えても、3都市を巡る合計20ステージはやっぱり僕にとって長い、長い道のりでした。僕もカンパニーメンバーもずいぶん鍛えられたと思う。

それにしても旅の終わりに静岡での仕事があって良かった。大好きな大道芸をたくさん観ることが出来たし、何より一晩だけだけど、光洋さんと川渕と3人で飲むことが出来た。

大道芸、僕らのやってることとは近くて遠い世界なんだけど、遠いようでとっても近い世界でもあって、そもそもパントマイムは、僕にとって僕がパフォーミングアーツの世界に足を踏み入れることになったきっかけの一つだし、光洋さんとの飲みは本当に楽しかった。本当に、この人は僕の心の師匠だ、と思う。(今の言葉でいうと、メンターとでもいうのかな。)

人のものごとに対する感じ方、人が何を面白いと思うのか。ということについて、静岡にいるあいだに、あるいは光洋さんと飲みながらずいぶんいろいろと考えた。スタッフの仕事なんかでも、一緒に仕事をしていて、仕事自体には支障なくてちゃんと一緒に仕事をすることは出来ても、同じものを見たり、感じたり、楽しんだりすることは出来ないんだなあ、と感じてしまうことがいる。それはとても寂しいことなんだけど、そういうことって、残念だけど絶対にある。

価値観というか世界との接し方というか、何を面白いと思うか、について共有出来る人と一緒に仕事をすることが出来るということは、とても幸せなことなんだと思う。しかしながらそれは、なかなかない。そのことにこれからはもっともっと自覚的でいようと思う。無自覚でいると、ズレが生じたときにとても苦しい思いをする。

けっきょく僕が求めているのは演劇についても仕事についても、技術じゃないんだな、と思う。技術は磨けば後から付いてくる。なければ磨けばいい。必要なのは感受性で、技術を突き詰めた先にどう、こころとからだを開くことができるか。開いた状態で感じることができるか。

つまり、どこまで意図的に余白を作ることが出来るか、だと思う。

光洋さんとも、話をしていて盛り上がったのは、これは光洋さんが言ってたことんだけど、演劇の現場なんかに呼ばれて行って、パントマイムじゃなく芝居をさせられたときの経験談なんだけど、自分がうまく台詞を喋ることが出来た、(コントロールすることが出来た、)と思っているときは、実はたいてい、外から見ていてぜんぜん面白くない。カッコつけてしまっているだけだったいるする場合が多くて、(あるいは隙間を埋めすぎて、傷つかないように守りに入ってしまっている。)逆に、こんなに淡々としゃべってていいのかな、という、なんというか、隙間だらけで物足りないくらいのときのほうが、外から見ていても想像力が働いて面白いことが多い(らしい)。ということとか、あるいはもっと、

何もしていない人がいちばんすごい。

ということだった。

いい芸人さんというのは本当に無駄な動きがない。余計な動きがないのに、あらかじめ決まっていることが一つもないように見える。何度見ても、その場で何かが起きているように見える。見えるだけじゃなく、彼/彼女の中でもきっと毎回新鮮にその場でそのことがハプニング的に起きているのだと思う。


shelfでは人が言葉を発するという行為についてずっと思考し続けてきているのだけれど、(それを指して「語り」について重視していると言ったりすることもあるのだけれど、)本当に大事なのは言葉をどう語るか、ということではなくて、(それだと台詞術(技術)の探求になってしまう。そんなのは詰まらない。)僕が関心があるのは、たとえば何かひとこと言葉を発したときに、どうしてもそこから零れ落ちてしまうもの。そういうもののほうに興味があるし、人がうまく喋れず、淡々となってしまうときの「声」に、あるいは言葉を発することが出来なくなってしまって、そこにただ居るしかない、ただ在るだけの「からだ」に、沈黙にこそ関心がある。にもかかわらず、うちに大きな衝動や空洞をを抱え込んだ存在としての人間に惹かれる。

余白を作ることは難しい。とても怖いことだと思う。人はどうしても、何かで隙間を埋めたくなってしまう。

でもそれはきっと違う。少なくともshelfでやりたいことはそういうことじゃないんだな、と、大道芸を見ながら、あるいは光洋さんと話をしながら改めて今回、そう思った。

そう思ったのだけど、それを技術や方法としてではなく実現することは可能なんだろうか。

僕は可能だと思う。それこそ、ここは信念の問題になってくるのだけれど、だから、疑いを持ちつつもそれを信じて、これからも試行していきたいと思う。

  • 2009.11.05 (木) 11:09
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ワンダーランド北嶋さん主催の私的な勉強会のこと、ルーチョ・フォンターナのことなど

昨夜NHK日曜美術館でマーク・ロスコの番組をやっていて、それを見ていてふと思い出したのだけれども、

先日(7/15)ワンダーランド北嶋さん主催の私的な勉強会があって、僕もこれに参加したのだが、この第一回目の発表を担当していたのが演劇ユニットDのT君で、彼の発表は、現代演劇の俳優の演技の様態について、マイズナー・メソッドの要求する俳優の演技方法を引き合いに出しつつ、"presence" と "existence"という言葉を使ってこれを分類しようというものだった。

で、この分類と用語自体については、みんなに「どうも上手くない」「変えたほうがいいんじゃないか?」「それを言いたいのなら…」といろいろに突っ込まれ、けっきょく最後には彼もこれを撤回しかかっていたのだけれども、今思えば彼が言いたかったのは、もともと絵画などで、キャンバスに何か対象を描いていた時代から、キャンバスそのものが何かの対象になっていった、その変遷を踏まえて、演技をしない身体というものを想定していたのではなかったか。

だとしたらその問題意識はとてもよく分かる。し、とても面白い着想だと思うのだけれども、惜しむらくはそこで提示していた、例えば○○の作品における××の演技は、という例示がすべて、そういった「演技をしていない演技」ではぜんぜんなかったということだ。彼の言葉でいえば、「だらだらしている」身体ではあったけど、しかしそれらはみな、稚拙ではあるけどそれなりに「演技」していた。(演技してしまっていた。)

で、あり得るとしたら「演技をしていない演技」体というのは、それは、(それでもあれも演技してしまっているのだと思うのだけど、)先日、これもNHKで放送されていた、リミニ・プロトコルの『カール・マルクス:資本論、第一巻』に登場していた身体くらいなんじゃないかと思った。(いわゆる「ポスト・ドラマ」というやつか。)

ということに思い至ったのも、マーク・ロスコの画を見ていて、なのだけれども、もっと正確にいうとマーク・ロスコの画を見ながら思い出していたのは下の画だ。

ファイル 399-1.jpg

上記は、ルーチョ・フォンターナ Lucio Fontana の『空間概念』(1962年 豊田市美術館)。僕もとても好きな画の一枚なのだけれども、カンバスが、それを敢えて切り裂くことによってそれとして目の前に現前している。その好例だと思う。

  • 2009.07.28 (火) 01:14
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7/7(火)パフォーマンス当日の記録(後編)/あるいは装置としての俳優ということについて

終わってだいぶ日が経ってしまったけど、7/7(火)パフォーマンス当日の記録、後編。

さまざまな偶然が重なって、本番はとてもいいパフォーマンスが出来たんじゃないかと思う。結果オーライというか、照明が使えなかったことも、終わってみればかえってその方が良かったんじゃないか。

前のエントリでも書いたけど、今回は、終わってから本当に、1回限りのステージでそれほど多かったわけでもないお客さまのうちから、驚くほどたくさんの感想をメールや直接に口頭で頂いた。それを聞いていて思ったことなのだけど、きっと開演時間も絶妙なタイミングだったのだと思う、刻々と移っていく日の光の変化や、時間の変化、夕闇の中で、森の中ならではの空気や環境音の変化が自然と感じられて、小さな人間の力だけでは為し得ない、もっと大きな時間の流れや空間に繋がることが出来た。パフォーマンスを通して、その場に居合わせた人たちで奇跡的な“体験”を“共有”することが出来たように思う。

ところでこの“体験”の“共有”ということは、野外に限らず屋内の劇場においても、演劇における非常に重要な要素の一つだ。や、“劇場体験”ということを考えるにあたっては、もっとも重要な要素の一つというべきか。

さまざまな偶然が重なって、とは書いたけど、しかしそれは今回、糺の森で上演するにあたって、予め目指していたパフォーマンスの在り方でもあった。つまり、自然や大きな時間の流れに繋がることが出来るような、俳優の身体(演技)や作品そのものが、そのための媒介となるように、ということをshelfではこれまで徹底して考えて来たし、今も考えているからだ。

これはワークショップでいつも話すことなのだけれど、shelfでは、

 俳優=観客が劇場体験をするためのメディア(媒介)である。

という言い方をする。

・観客は、舞台上に在る俳優が見ているものを見て、聞いているものを聞き、感じていることを感じる。

・とすればそのときに、俳優がより多くを見聞きし、感じていた方が、観客もまたより多くの情報を受け取ることができるのではないか。

・そのためには俳優は常に日常レベルより大きく“感覚を開いている”必要がある。

…という一連の仮説があって、そのような、舞台上にあるべき(俳優の)身体の状態を探っていく、というワークショップを、shelfではいつも行っているのだけれど、例えば今回いただいた感想で、

「ワークショップのときも感じたことですが、特に川渕さんの後ろ姿を見ているだけで虫の音や風の音や、あの森の中の色々なことがどんどん観ている自分にも聞こえてくる気がして、こういうことなのかな(どういうことなのかな)と思いながら拝見いたしました。」

というような感想を頂くと、わが意を得たり、という感じで非常に嬉しい。

つまり、普段目に見えないもの、見逃してしまっているものが観客にクローズアップされるというか、見えない筈のもの(それは人と人との“関係”とか、もっといえば心、とかも含む。)が見えてくる、という体験――あるいは、意味や記号に回収しきれない、存在そのものに直に触れるような体験とでもいうか――が、舞台芸術を観ているときには少なからずあって、それをどうやって恒常的に作り出すか。ということについて、shelfでは試行錯誤し続けているし、そのための装置としての俳優ということをずっと考えているからだ。

で、今のところの仮説が、そのためには俳優が、自分を取り巻く環境や関係から、(あるいは相手や自分の発した言葉から)どれだけ多くの情報を受取って、(感じて、)抱えていられるか。次第であるというもので、shelfではカンパニーとしてそのような俳優を作ろうとしているし、逆にいえば、うちの主軸である川渕優子がそのような存在の仕方が出来るようになって来たのと、shelfのパフォーマンスが高く評価されるようになって来たのとは、だいたい時期を同じくしている。

ともかく、俳優の存在の“強度”はそのことに強く依存している。だから、俳優に対して要求することとしては、まず、「よく見て」「よく聞く」こと、それを何よりも強く要求するし、どう喋るか、とか、どう聞くか、は取り敢えず二の次で、(もちろん、喋ることも動くことも重要なんだけど、)発語し、動いている時にもとにかく聞き、見る。

そしてもっと大事なことは、その上で、その結果としてどこまで心を動かし続けていられるか。ということ。

陥りやすいのは、人はつい、繰り返しのパフォーマンスのなかで安定を求める。求めてしまうということで、しかし俳優の中身は、本当は常に揺れていなければならない。揺さぶられていなければならないのだと思う。

演劇において、その場にちゃんと“いる”ということがどれだけ大事か。そしてその“いる”ということについて、これはただ“いる”だけではダメで、それにはやっぱり、特定の方法や訓練が必要なのだ。

具体的な例を挙げて話せば、例えば今回、俳優たちには素足で演じて貰っていたのだけれども、出演者の一人(岩井)がふと、どこだかのワークショップで聞いた話を本番中に思い出して、足の裏に感じている落ち葉の混じった土の感触を(それについても、とにかく足の裏で上演中も常にそれを感じ続けていてくれ! と僕は要求していたのだけれども、)ふと思い立って、上演中ずっとその落ち葉の混じった土の味を感じていたのだという。

そしたらとても地に足が落ち着いたというか、繋がった感じがして、落ち着いてその場に“いる”ことが出来たような気がする、と、パフォーマンスが終わってから彼女がそんな話をしていたのだけれど、

勿論、俳優が感じている土の味、なんてものは観客には絶対に伝わらない。だけど、五感を(その“末端の記憶”も含めて、)通じて俳優を通り抜けている“情報の束”が大きくなればなるほど、確かにその俳優の存在感は強くなる。

それは見ているこちらにも明らかに分かることで、出演者たちはみな一様に、稽古場で見ていた時よりも(最初は当人たちも環境の違いに戸惑いこそしていたものの、)最終的には、その身体は、稽古場で見ていたときよりもずっと、見ていて、飽きないものになっていた。その度合いが強くなっていた。

それは他でもない、例えば俳優が土の味を感じていたり、稽古場で壁を見て、カーテンの襞を数えていてもいつか飽きてしまったのが、野外だと森を見ているだけでぜんぜん飽きませんでした、ずっと何もせずに立っていられました、といったようなことが、(これは蓮見が言っていた。)絶対に俳優の存在の現前性と深く関係していて、

その意味で、だから、すぐれた俳優はおそらく、怖ろしくたくさんの情報の受け取り、五感からの情報入力、感覚や記憶の想起などを含めた情報の受け取りが、(野外のような特殊な環境にいなくとも)自然に出来ているのだと思う。

あるいは、それは、もっというと舞台と客席とがきちんと“関係しあっている”関係が作れていた。今回に関していえば、野外という環境を媒介にして。という言い方も出来るかもしれない。

ここのところは、もっともっと突き詰めて考えていかなければならないところだけれど、(つまり、では屋内ではどのようにしたら野外に匹敵するような“媒介”を客席と共有することが出来るか? については、まだまだ考えなければならないことがたくさんある。)その一方で、頂いた他の感想に、

「時間も難なく飛び越えて、男が朽ちていくのも自然で面白かった。」「現代の私たちの直面する社会の不合理を示唆する内容に、胸を衝かれる思い」があった。などというものがあって、これらが通時的な、時間軸に沿った縦方向のドラマだとすると、

「森でのパフォーマンス、抑止された動きも、自然の劇場に立つと一体化して柔らかいものになるなあと」思った、とか、先にも挙げたような、「川渕さんの後ろ姿を見ているだけで虫の音や風の音や、あの森の中の色々なことがどんどん観ている自分にも聞こえてくる気がして、」というのは明らかに、劇場において、通時的な(起承転結というような“筋書き”としての)ドラマ以外に、客席と舞台とのあいだで起こる共時的な、横軸のドラマが生起していることを示唆しているのではないかと思う。

それをドラマと呼ぶかどうかはさておき、僕がこれを“劇場体験”の重要な要素の一つ、といったのは、そういうことだ。

  • 2009.07.17 (金) 01:41
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  • Yasuhito YANO

「脱解釈」って何?

ところで、最近ちょっと聞き慣れない言葉を聞いたんだけど、「脱解釈」 って、演劇においてはどんなことを指すのだろう?

西村君がブログで、 「今回演出をやっていて再確認したことは僕は、脱解釈型の演出家なんだな、ということ。そして、そのタイプの演出家が日本で評価されていくのはやっぱり相当演出が上手くないとだめなんだな。」 と書いている。

あと、 「脱解釈や、再構築の演出が評価されるためにはその戯曲が観客に熟知されていなければいけないんだけど、日本においてはたとえ古典であろうと熟知されていることはない。」 とも。

「再構築」 は分かる。古典を演出する上で、執筆時、あるいは初演時当初の文脈では機能していた記号や言語の意味体系を、現代の文脈でも機能するようにもろもろ置き換えて行く作業や、

あるいはもっと極端に言えば、テキストそのものを1コの題材として扱い、いったんそれをバラして、そこに描かれている物語なりをそのまま再現するのではなく往々にしてそれとは別の物語として、現行のもろもろの文脈やサブテキスト、観客に対してアクチュアルに機能し得るようなイメージの集合などと組み合わせ、再び1コの劇作品として構築しなおす。(ただし出来るだけ、テキスト本来の持つ価値を損なわないように、シンプルに。)というような、手続きのことだと思う。ちょっとややこしく説明しすぎか。

鈴木忠志の 「劇的なるものをめぐって」 に始まる一連の仕事などはまさにそれに当たると思うし、蜷川幸雄の初期の代表作( 「NINAGAWAマクベス」 など)も、枠組みを置き換えることで、物語の受容を大きく変容させたという意味では、同じと言えるかも知れない。(蜷川作品は、戯曲の 「新解釈」 を提示した、という言われ方をされることの方が多いし、鈴木忠志と比べると作業工程はぜんぜん違うのだけど。)

で、「脱解釈」 だ。これが、よく分からない。

「解釈」 という言葉は、文脈によっていろいろな使われ方をするけど、(例えば、 「法解釈」 とか、 「聖書の解釈学」 とか。)いずれにしても言語、あるいはそれに類する記号に対応して行われる、ある特定の“行為”をさすもので、演劇の文脈で言えば、誤解を恐れずに言えば、戯曲をどう“読む”か。ということなんじゃないかと思う。

あるいはそこから派生して、先行する様々な上演例(つまりタテ軸の歴史性)だったり、サブテクスト、それを取り巻くイメージの網目(同時代の、ヨコ軸の関係性)をどう読んで、そこにどういうふうに一定の、一貫した 「読み」 を与えて、 「理解」 出来るものにするか。というその手続き一般を、 「解釈」 という言葉は指しているのじゃないかと思う。

のだけど、だから、それを 「脱」 っていうのが、ちょっと分からない。“読まない”ってこと? うーん。

単に 「パロディ」 というような意味しかないのだったら、まあ、分からなくもないけど、ちょっとがっかりだ。

誰か、詳しい人がいたら教えて下さい。

  • 2009.04.17 (金) 14:38
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| ysht.org url (04.23 00:36) 編集・削除

追記1

けっきょく作品を観てみないと何ともいえないか。しかも、じゃあ、この作品・作家をして「脱解釈」の作品だ作家だ! なんて、誰が決めるのか。という問題もある。いずれにしても恣意的といえば恣意的で、

ただ、個人的になんとなく、このへんの人たちのことかなあ、という漠然とした印象はあってところに、Tさんから頂いたコメントはとても示唆的でした。

“作業として「言語、あるいはそれに類する記号に(素直に)対応しない」テイを見せる、という演出法” なのでは?

という。ちょっとピンときました。ああ。そういう作り方してる人たち、いるなあって。

「容易に解釈されることを受けつけない」=「解釈がオーバーヒートするようなイメージの氾濫した」もしくは「社会に向かって開かれていて、作品として完結しない」作品というのなら、考えられなくもない。

ということを、先日の平松さんの作品を観ながら考えました。

| ysht.org url (04.23 00:45) 編集・削除

追記2

実はこのエントリについては、mixiにも同じ内容を記載していて、この間そちらで、いろいろなコメントを頂いていたのでした。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1140586582&owner_id=875843

前述のTさんのコメントもそこで貰ったものなのですが、その他に、なるほど! やっぱりそうですか。と思ったのは、Rさんに頂いたコメント。

どうやら、「脱解釈」というのは、川村毅さんの造語らしく。googleで検索すると、確かにほとんど出てこないところ、1個だけ、川村さんの書いた劇評? のような文字列がひっかかるんですね。「せりふの時代」 2008年夏月号かな。新宿八犬伝の。西村君はもと第三エロチカだし。なんか、納得しました。

Rさんには曰く、

脱解釈の「脱」とは、おそらく、解脱や脱出ではなく、「逸脱」「脱線」の「脱」なんでしょうね。

というご指摘も頂いたのですが、なるほど。至極納得です。逸脱かあ。その気持は、ちょっとだけ分かるなあ。