記事一覧

the Full Text of the Taliban Letter to Malala Yousafzai

ちまたで出回っているタリバーン幹部からマララ・ユスフザイさんへの抗議文の粗訳を読んだ。後でこの原文も読む。

Here's the Full Text of the Taliban Letter to Malala Yousafzai - The Science of Society - Pacific Standard: The Science of Society

ファイル 1235-1.jpg

http://www.psmag.com/

  • 2014.10.18 (土) 15:12
  • Permalink
  • archive::[deprived]@TPAM 2015
  • Comments(0)
  • TrackBack(0)
  • Yasuhito YANO

[deprived]のための参考資料 03

三好十郎がこの文を書いた時代、アメリカは朝鮮戦争(1950年6月25日-1953年7月27日休戦)の真っ最中であり、7年後の1960年12月にはベトナム戦争が始まる。

アメリカ人に問う

三好十郎

 すべてのアメリカ人諸君。

 誤解が起きるのを避けるために最初にことわっておきますが、私はアメリカを良い国だと思い、アメリカ人をよい人たちだと思っている者です。あなたがたは若くエネルギッシュで率直で、正義と自由に立とうとしており、他国にたいして寛大で親切です。

 私および私どもは戦争が終ってから八年のあいだあなたがたの姿とあなたがたが私たちにむかってなさったことを注意ぶかく見てきました。その八年めの結論としてこのことを言っているのです。

 私および私に似たような日本人の多数が、あなたがたを良い人たちだと思っているという事実を、あなたは信じてくださってよろしい。

 なぜこのようなことを最初に言うかといいますと、私はこれから、もしかするとあなたの気にさわるかもしれないある質問をあなた宛てにしようとしているからです。

 たぶん、たしかにそれはあなたにとって愉快な質問ではない。もともと私はどんな意味ででも、あなたに不快をあたえたくない。だのにこんな質問をあえてするわけは、それはどうしてもしなければならぬ質問だからです。私は八年間、言いだすのを控えていましたが、しかし結局はどうしても言いださないではいられない。そういう欲望と同時に必要があるのです。私だけにとって必要であるばかりでなく、私とあなたとの今後の関係にとっても絶対に必要な質問であると思います。だから質問の結果、一時的に多少あなたを不快にさせたりするかもしれないと心配しながらも、言いださないわけにはいきません。そしてたぶん最後まで読んでくださればわかってもらえるであろう―そういうつもりで、言いだしてみるのがよいと私は考えます。

 それに、これを言いだしてみるということそれ自体が、私があなたがたを人間として信頼している―すくなくともある程度までは―ということは、私の質問の表面的な不愉快さにたいする反感のために、この質問を持ちだそうと思った私の真意までを曲解なさるほど不公正な人間であなたがないと、私が思っているということです。

 そこで、私の質問はどんな質問かといいますと、原子爆弾についてであります。もっとくわしく言うと、原子爆弾とあなたがたが拠ってもって立っている民主主義との関係についてであります。

 私は昨年(一九五二年)すえのある新聞につぎのような文章を寄稿しました。

「友人と私は喧嘩をした。しかけたのは私で、その動機はまちがっていた。喧嘩中に友人はひどい兇器を使った。

 喧嘩は私が負けて、私はあやまって、今後ながくこの友人と仲よくしていきたいと思っている。

 ところが友人はその兇器をまだふところに持っている。軽率に出して使いはすまいが、でも、彼がどういう理由でどんな気持になったときに使うかがハッキリわからないので、こちらは不安で、気を許してほんとに仲よくしてもらうわけにはいかない―。

 アメリカが日本と仲よくしてやっていってほしいとわれわれは望む。しかし望めば望むほどアメリカの持っている原子兵器が気になる。どんなときに、だれが、どんな機関が、それの使用を決定するのか? それらを秘密またはアイマイにしておくことによって、他国の戦意を威圧していこうというのかもしれないが、それで今後ぜったいに戦争が起らぬことになればありがたいが、それにしても不安は消えず、そして不安はさらに大きな戦争の原因にもなりうるのだ。

 戦争中、広島と長崎に原爆を落すことを、アメリカの全国民が賛成したとは思われない。たぶんアメリカ軍の統合参謀本部といったようなところで決定され、トルーマン大統領がサインをして、軍の専門部に命令がくだされたのだろうと察しられる。

 今後も同様の手つづきがとられるのだろうか? そのばあい、アメリカ全国民の賛否はどうなるのだろうか?

 原爆の数千倍の威力を持つという水爆の実験が成功したという。そして来年一月からはトルーマン氏にかわって、大戦中アメリカ軍の首脳者の一人であったアイゼンハワア氏が大統領になる。この機会に今後どのようなばあいに、だれがどんな手つづきで、原爆や水爆の使用を決定するかを私どもは知っておきたい。これは、皮肉や悪意による質問ではなくて、アメリカと仲よくしていきたいための善意から出た質問である。

 アメリカ人のなかで、どなたでもよいから答えてくださる人はないだろうか。」

 この文章は、かなり多数のアメリカ人に読まれたと思ってよい理由があります。しかし現在までのところ、答えてくれた人はありません。私はしかし、どうしても答えをえたいと思います。私はしんぼうづよく待ちます。しかし待つあいだに、私の質問をもうすこしくわしく語りひろげてみたい、そしてそのことによって、あなたの答えをさらに催促したい、それがこの文章であるわけです。

 私の質問に答えることが、それほどたやすいことではないことは、わかります。ことがらはひじょうにデリケイトです。

 あなたは、もしかすると、原爆のようなあまりに大きい破壊力を持った兵器を使用したことを後悔なさっているかもしれないし、またもしかすると、良心にとがめていられるかもしれない。またあなたはもしかすると、戦争は戦争なのだから相手を早急に打ち負かし、そのことによって戦争がそれ以上ながびいたばあいに起きるであろうさらに大きい彼我の災害をくいとめるためには、原爆の使用はやむをえなかった、ばあいによって使用した方がよかったと思っていられるかもしれない。またもしかすると、すでに戦争は終って、アメリカと日本とのあいだには講和がむすばれ、安保条約ができて、日米間の協力と親善関係が緊密なものになる必要と希望が感じられている現在では、戦争中の記憶はなるべく早く消えていった方がよい、それにはその中でもっともいちじるしかった原爆について、いまさら語らない方がよいと思っていられるかもわかりません。そういった考えかたは、私に理解できなくはありません。しかし、じつは、そういう理由そのものが、私があえて質問をする理由でもあるのです。すなわち、現在から将来にわたって、日米間の協力と親善の関係が緊密なものになる必要と希望を、私およびもしかするとあなたも感じているために、私は質問を出しているのだから、あなたは答えてくださらなくてはならない。

 終戦後、ごく少数のアメリカ文化人が、原爆のことを語った言葉の二三を私も新聞紙上で読んだことがあります。しかしそれらはすべて、ひじょうに持ってまわった、しかも抽象的な、またはボンヤリした意見であったし、それにまた、それにつけくわえられていた日本人にたいする言葉も、ただ「お気のどくでした」程度の挨拶にすぎませんでした。

 私はふしぎでなりませんでした。なるほど政治家達は、政治の必要から往々にして率直にものを言いません。それはどこの政治家もそうだから仕方がありません。しかしアメリカにも学者や評論家や文化人たちはいます。一言にいって、アメリカの良心といえる人たちは多い。そんな人たちが、このことについてこんなにまで発言しないのは、なぜでしょうか? 現在のアメリカに原爆使用について論議することを禁ずる法律はなかったと思います。それとも、アメリカ文化人のあいだには、原爆使用の問題については語らないという、暗然のタブウのようなものがあるのでしょうか?

 かりにそんなものがあったとしても、私は質問をひかえるわけにいきません。それは、われわれ日本人が原爆の最初の被爆者であるゆえです。

 あなたがたは、広島と長崎という、ほとんど無防備にちかい都市の非戦闘員にむかって、まえもっての警告なしに原爆を落した。一挙に数十万の市民が殺傷されました。それからの被害のあるものは、いまだに残りつづいています。全日本人の大半が、広島、長崎の被爆者と縁故のないものはないと言えます。私自身も、私にとってかけがえのない数人の親友を広島で失っています。

 彼らの全部が一気に死んだのではありません。のたうちまわって苦しみ、しかもそのすえにかならず死ぬことを知らされつつ死んでいった人も多いのです。そういう人たちの苦しみと、それを見まもっていなければならなかった私たちの苦しみを、想像していただきたいと思います。

 誤解しないでください、私はこのことについてあなたがたをここでとがめようとしているのではありません。たぶんそれは、とがめることのできることがらだと思いますが、私にはその力も資格もないし、またここはそういう場所でもない。それに、戦争をはじめてしまった以上、その戦争のなかで相手を倒すためには、ばあいによって、どのような種類の破壊力でも使用するのは当然または、やむをえぬことだとする考えかたもあるわけですし、またあなたがたは「それでは真珠湾の無警告攻撃はどうだ?」と言うかもしれない。たしかに、それももっともなことです。そのようなことのいちいちを比較計量して断罪しようとしても、いまとなっては意味をなさぬと思います。ただわれわれは、広島と長崎の原爆のことを忘れることができないのです。

 いうまでもなく、私どもはこの記憶を、憎悪や怨恨のために使いたくはない。できるならば、今後の世界と平和と人類の幸福に役だつように使いたい。それがまた原爆被害者達の死や苦しみを無駄にしないためのいちばんの道でしょう。この点ではたぶんあなたも賛成してくださると思います。そのためには、私どもは今後戦争をひきおこす原因になりそうなことを、できるかぎり取りのぞいていくつもりです。あなたがたもたぶんそうしてくださることと思います。あなたがたと私どもがその点で心と力をあわせて努力すれば、それはかなり効果があるはずです。

 しかしそのこととは別に、現在の世界の諸国家間の緊張した関係は、私どもをして理想主義的な平和運動の境にとどまらせておいてくれない。われわれは現実を見ざるをえないし、必要とあらば現実にふみこんでいかざるをえない。諸国家の国民のだれもが戦争を望んでいないばかりでなく、その大多数が戦争を心から嫌悪しているにもかかわらず、現在の現実では、戦争は起きてしまうかもしれないのです。

 この矛盾のこっけいさは、今となってはグロテスクになってしまった。しかしどんなにグロテスクであっても、われわれはこれを認めないわけにはいかぬし、それに対処しなければならないのです。

 あなたがアメリカ人が好戦的な人たちだとは私は思わない。ソビエットの人びとが好戦的であるとは思わないのと同様に。にもかかわらず、あなたがたは今後戦争をするかもしれない。このようなことを言ってみるだけのことさえも恐ろしく悲しいことだが、言わないでは話がハッキリしない。そして、もしそんなことになれば、あなたがたは原爆、水爆およびその他の猛烈な威力をもった兵器を使用する可能性がある。

 そのときに、あなたがたは、どのような手つづきでその使用を決定するのだろう? それを私どもは知っておきたいし、知っておく権利があるように思うのです。そしてじつは、あなたがた自身もそれをハッキリ知っておく必要があると私は思います。そして、その参考として、まえに引用した新聞の文章で、私は広島と長崎の原爆が使用されることに決定した手つづきと使用の手順がいかなるものであったかを質問したのです。

 それはたぶん私が右の文に書いたようなてつづきによったものと思います。しかし、もう少し具体的に正確に私たちは知りたい、あなたがたアメリカ人は知っていられると思う。それを知らせてほしいのです。

 たとえば、それを決定したときの統合参謀本部なり、そういった組織の構成員の職制や人名や責任の分担など、それからそこでの決定とトルーマン大統領のサインのあいだにどのような規則や慣例があるかについて、またそれが軍の専門部に発令し執行されるにいたる全段階にわたってのできるかぎりのくわしい具体的な知識を私はえたい。それからまた、原爆使用が考慮・計画・決定・施行される全過程のなかのどこかで、一般のアメリカ市民のそのことに関する意見がはいりこんでくる機会が考慮されているかどうか? 考慮されていなくても、自然にはいりこんでくることが可能であるかどうか? または事実はいりこんできたのかどうか?

 それらの事実をありのままに知らせてくださったうえで、あなた自身は、そのような事実―つまりそのような手つづきで原爆が使用されたことについて賛成なのか不賛成なのか、そしてその賛否いずれであっても、どのような意味で賛成または不賛成なのかをつけたして聞かせてください。さらに、今後もし原子兵器が使用されることがあるばあいには、その手つづきがこれこれのものでなければならぬとの意見まで聞かせてくだされば、私はうれしいと思います。

 あなたがたの率直さと誠実さは、かならずこれに答えてくださることを私は信じます。あなたがたのあいだには自由がある、民主主義がある。クリスト教がある。人道的連帯性がある。日本および日本人に対する善意がある。そして私の質問に答えてくださることを妨げるものは何もありません。

 もし万一、答えてくださらなければ、やむを得ず私は、あなたがたの自由や民主主義やクリスト教や連帯性や日本にたいする善意などを、私どもが理解しているものとは違う、何か疑わしいものと思いはじめざるをえないでありましょう。

 なお、このことに関して、もう一つ質問したいことがあります。それは、原爆や水爆その他のあまりにも巨大な威力を持った兵器の使用に関して採用されている民主主義的な権限委託の方式が誤りではないかということです。少なくとも、それはすでにまにあわなくなった方式であり、修正または改変を必要とするのではないかという問題です。

 民主主義体系の国家では、国民全部が法律によって公吏をえらびだし、それに公けのことを執行する権利を委託する。公吏は国民の「公僕」として委託された権限内において国政をとる。戦時においては軍事がもっと大きな政治の部分になり、軍部および軍人が、当然もっと大きな発言権と執行権を持つが、それにしても、国民全体からえらびだされた最高の公吏の統率のもとにあるのだから、間接的にではあるが、国民から委託された権限内で戦争を遂行しているということになろう。

 ただ戦争は相手のある仕事で、その相手はあらゆる手段をつくして、こちら側を打ち負かそうとして刻々に動き変化しているために、軍および軍人は、そのときどきの戦局に対処するためには、往々にして、いちいちの執行について、最高の統率者にはかったり、または命令を待ったりする余裕をもたない。まして、国民の代表者である議員や国民自身に相談を持ちかけることは、ほとんど不可能な立場にある。

 国民の側から言っても、かりにいちいち相談を持ちかけられたとしても、それにたいして適切な答えを出せるような立場にはいないので、いっさいを軍と軍人に一任して結局は戦争に勝ってくれさえすればよいということになる。つまり戦時における軍と軍人は、やむをえず、かなりの程度まで独断専行を許されるものである。ということは、民主主義というもののいちばん貴重な項目―その国家にとって重大なことを遂行するにあたって、その国家のすべての成員が、それの可否についての討論に参加するという方式―が、戦時には、完全にか部分的にか棚あげされてしまうということである。その意味で戦争は民主主義を麻痺させてしまうとも言える。

 戦争というものは、本来的に、そして決定的にフアシズム的なのである。われわれが民主主義を大切なものとして育てるつもりならば、われわれは極力戦争手段を避けなければならない。もしまた、どうしても戦争手段が避けられないのが現実ならば民主主義の実施方式を修正しなければなるまい。その意味で、これまでの民主主義の弱さや甘さが批判されなければならぬ段階がすでに来ているのではないのか。

 私はこう考えます。それについてのあなたのご意見を聞かせてください。

 つぎにおたずねしたいことは、右と関係のあることです。

 たしかに近代の戦争はそのようなものであり、軍および軍人はそのようなものであります。それは、やむをえないことです。しかし、その軍や軍人が戦時に使用する武器が、一瞬のうちに何十万という敵国人を殺傷する力をもった原子兵器その他でもあるばあいにも、軍および軍人または直接軍の統率者たちだけの決定にまかされていてよいでしようか?

 そんなに強力な兵器の使用決定の権限をも、国民全部から無制限に一任されると思うのは、軍および軍人または直接軍の統率者の思い違いではないでしょうか? すくなくとも、それほど重大なことの決定にあたっては、それらの責任者たちは、国民から委託された権限の地位からもう一度おりて、あらためて国民の総意を問うだけの手つづきを取るのが至当ではないでしょうか?

 そんなことをしていれば、機密が洩れたり戦局にまにあわないというようなことが起きるでしようが、それはまた何かの防ぎようがあるのでしようし、それだけを理由にして、独断によって使用されるものとしては、それらの兵器の効果は巨大にすぎるし、残酷にすぎます。使用された目的と、使用された結果とがバランスを欠きすぎるのです。ある一つの国を負かすのに、その国民をそのようにたくさん、いちどきに殺す必要はないのです。

 たとえば、主人から「犬が吠えてやかましいから吠えないようにしてきてくれ」と言われて、家の近くの犬という犬を一匹残らず打ち殺してきた下僕があったとしたら、どうでしょう? それに似たような、そしてそれよりも何千倍もグロテスクで恐ろしいアンバランスが、このことの中にあるような気がするのです。

 あなたはこの点をどう思われるでしようか?

 戦争中、アメリカ全国民は、たぶん、原爆を日本に使用するについて、軍から相談を受けなかったのではないかと推察されます。もしそうだとすれば、それをあなたはよかったと思われますか、よくなかったと思われますか、かつ、その場合の原爆使用についての責任の所在はどういうことになるか、また、そのこととあなたがたの民主主義との関係はどんなものになるのでしようか?

 さらに、今後もし万一、戦争が起きたばあいに、このことはどんなふうに考えられ、どんなふうに手つづきがとられるのがもっとも至当だとあなたは考えられますか?

 以上のいろいろの質問に答えていただければ私はひじょうにひじようにうれしいでしょう。どのような角度からの、どのような種類の答えでもけっこうです。私の意見や言いかたのある部分を、とがめてくださることもけっこうです。ただ、正直な、ホントのことを聞かせてください。お願いいたします。

(一九五三・五)


  
ファイル 1193-1.jpg

三好 十郎(みよし じゅうろう)|1902年-1958年

昭和初期から終戦後の復興期にかけて活動した小説家、劇作家。佐賀市生まれ。12歳で両親を失う。早稲田大学英文科卒業。早稲田大学在学中から試作を発表し、プロレタリア劇の作家として活動を始めた。その後、左翼的な活動に疑問を覚えたとして組織を離脱。戦後は、近代の既成文学全般への批判を貫き、無頼派の一人といわれる。代表作に、戯曲『胎内』、『冒した者』、『斬られの仙太』、『廃墟(一幕)』、『炎の人―ゴッホ小伝―』等。

  • 2014.08.15 (金) 13:19
  • Permalink
  • archive::[deprived]@TPAM 2015
  • Comments(0)
  • TrackBack(0)
  • Yasuhito YANO

[deprived]のための参考資料 02

藤井聡(京都大学教授・内閣官房参与)×先崎彰容(東日本国際大学東洋思想研究所准教授)「しなやかなナショナリズム」をつくる~大衆社会の病理とこれからの共同体論~

村上春樹、江藤淳、吉本隆明、丸山眞男、網野善彦、柳田國男、夏目漱石、勝海舟、ハンナ・アーレント。ナショナリズム、国家、文学、政治、保守。新幹線、小岩井農場、地域コミュニティ。息苦しさということについて。生(命)の衰弱(穢れ。)

過剰な自己。過剰な政治。時個人主義と自由主義と。公と私の対立。そも個人とは? 倫理を問うことが出来る唯一の動物としての人間という存在について。あるいは文学と、黙るということについて。ある印象に吃驚して黙るということ。9.11と3.11と、絶句するという“嗅覚”について。

柳田國男の描いた穏やかな村落なぞおそらくはこの世の中には存在しない、そして柳田の対極的な存在としての江藤淳においては、彼にとってはこれだけバラバラな人間が異なる価値観をぶつけ合い、喧嘩をして、そして折り合いをつけて共に生きていこうと試行錯誤をしている、それは夫婦もそうだし、会社も同じ、さらには国家にとってもそれは同じで、国家とは個人である自分を守って、柔らかく包んでくれる宗教のようなものではなく、むしろ守らなければならない存在であるということ。

ジュンク堂対談、1時間28分。(2013年10月24日収録)

ファイル 1189-1.jpg

藤井聡(ふじい さとし)|1968年-

京都大学大学院工学研究科教授、同大学レジリエンス研究ユニット長、第2次安倍内閣・内閣官房参与。専門は公共政策に関わる実践的な人文科学及び社会科学全般。縁あって、西部邁が主催していた私塾(『表現者』塾)の場を通して、思想・哲学を中心とした幅広い人文社会科学を改めて勉強するようになる。西部に指導されながら研究を進めていたころ、プラグマティズムという考え方に改めて触れる。村上春樹についての批評文を雑誌『表現者』に寄稿。国家基本問題研究所の客員研究員。都市社会工学の研究以外にも新書、雑誌、業界紙などにて言論活動を行っている。

ファイル 1189-2.jpg

先崎彰容(せんざき あきなか)|1975年-

日本の倫理学者、東日本国際大学准教授。東京大学文学部倫理学科卒業。東北大学大学院文学研究科日本思想史博士課程単位取得修了。2007年「個人主義のゆくえ 福沢諭吉・高山樗牛・和辻哲郎にみる」で東北大学博士(文学)。文部科学省政府給費(日仏共同)留学生として、フランス国社会科学高等研究院(EHESS)に学ぶ(専攻:国際日本学)。東日本国際大学東洋思想研究所准教授、専攻、近代日本思想史・日本倫理思想史。

  • 2014.08.09 (土) 13:59
  • Permalink
  • archive::[deprived]@TPAM 2015
  • Comments(0)
  • TrackBack(0)
  • Yasuhito YANO

ページ移動