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fringeブログ「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない」への異論(2)

「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない(2)」を読んで、

「アクセス」という言葉は、その公演への接しやすさという意味で使用した。内容を読めば、都市部の現代演劇公演を念頭に書かれていることがわかると思うのだが、揚げ足取りのような反論があるのは残念だ。距離的に遠い場所での公演は、その場所で上演すること自体に意味があるのだから、やったらいい。その代わり、観客が観劇旅行の準備が出来るよう、開催3か月前に詳細な日程を公表するなどの配慮が必要だ。能狂言は一日興行が本式で、薪能は由緒があってその日に上演するのだから、複数日に開催することが逆におかしい。平日の早い時間のほうが来やすい観客も当然いるだろう。そうした観客には平日マチネを設ければいいわけで、今回問題にしている平日ソワレとは関係ない。ぜひ同じ土俵で議論していただきたい。

という応答がありましたのでそれに即して、続きを書きます。話は少し荻野さんの「平日ソアレ」に絞られた議論からはいったん脇にズレるかもしれませんが、主に、先のエントリで脇に置いた、「公共性」を担保するべきはカンパニーか劇場(「場所」)か。という問題について書きたいと思います。

利賀の件については別途考慮されているだろうな、というのはある程度文脈から理解できましたが、念のため述べさせて頂きました。荻野さん、悪しからずご了承ください。

また荻野さんのおっしゃる都会でのライフスタイルに合わせた公共性、ここでいう「アクセス」は、おそらく(不勉強でwiki程度の知識しかないのですが、)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%85%B1

ここに書かれている、斉藤純一の述べている公共性の要素である

・official (公務員が行う活動が帯びるべき性質)
 国家や地方自治体が法や政策などに基づいておこなう活動。
 例:公共事業・公共投資・公的資金の投入・公教育・公安の維持。
 対比されるもの:私人の営利活動。

・common (参加者、構成員が共有する利害が帯びる性質)
 共通の利益(公共の福祉)の追求・共有財産(公共財)の維持管理・共有する規範(常識)の創出・共通の関心事(ニュース)などの伝播。
 例:公益・公共の秩序・公共心・世間(せけん)。
 対比されるもの:私有権・私利私欲・私心。

・open (公共的なものが担保しなくてはいけない性質)
 誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報。
 例:情報公開・公園等の公的空間。
 対比されるもの:秘密やプライヴァシー・私的空間。

この考え方は、山脇直司『公共哲学とは何か』(ちくま新書)での公共性の3つの意味(①一般の人々にかかわる② 公開の③政府や国の)とも共通する。

日本ではあまり議論されないunofficial(民間レベルの公共的なもの)という概念も存在し、町内会・自治会・NPO・慈善団体・ボランティアサークルなどがその例に当たるが、上記の分類に従えばほぼcommonに該当すると考えられる。

のうち3番目にある“open”「誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報。」に即して書かれているのかな、と感じました。

なので僕も、冒頭で少なくとも不特定多数に 「開かれている」 公演に対して、公共性が 「ない」 というのは(「低い」 というのであればともかく、)いささか乱暴なのではないか? と書いたのですが、

ちょっと話は飛躍しますが、僕は、「公共性」 については、先のエントリで、

> 「公共性」 を担保するべきはカンパニーか劇場(「場所」)か。という問題もありますが、それはちょっと脇に置きます。

と、論の途中で脇に置いた、「場所が担保するべき公共性」というものをもっと重視した方がいいのではないだろうか? というのが今のところの立場です。(荻野さんも部分的にそのことには言及しておられますが、)

つまり、現状の成り立ちからして日本の小劇場においては、個々のカンパニーだけの努力では 「公共性」 は担保しきれないのではないか、と考えます。(その意味で、劇場法にはその危険性も鑑みつつ、期待を寄せています。)

荻野さんは 「公共性はある」 という前提で物事を考え進めると思考停止に陥りやしないか、と問題視されていますが、僕もまったくその通りだと思います。

というのも芸術の公共性を論じるとき、に問題にすべきは、芸術は“準”公共財と呼ばれるべきもので、だからその分、本来程度問題として論じられるべき問題なんですね。

だから、演劇活動はすべて助成されて当然だというのは極論すぎて社会に、特に(芸術の外部経済性の問題はさておき、)芸術それ自体に価値を認めていない人には到底受け入れられないでしょうし、といって、演劇なんか、興業なのだから助成しなくて構わない、というのも暴論でしょう。

芸術には、直接の「存在価値」、すなわち便益を享受する者の「利用価値」以外にも、経済的な側面からだけ見ても、経済用語でいうところの様々な「非利用価値(オプション価値、威光価値、遺贈価値、教育的価値、等)があるという点からもそれは明らかです。その点は、荻野さんとも相互に了解が得られる点だと思います。

これはオリザさんもどこかで述べておられましたが、劇場法制定のメリットという点からのロジックですが、例えば劇場の稼働率の問題にしても、全国各地に創造拠点となる劇場や観賞事業専門の劇場が出来て、そこで出来た作品(コンテンツ)を他の公共劇場でも回していくことが出来るようになれば、一コンテンツ(一カンパニーの一作品)では数百人単位の集客しかできない公演であっても、コンテンツ数を増やしていくことによって、結果、公演回数を増やすことができ、稼働率は高まるし、平日夜公演も増えてくると思います。(平日夜公演の増加のためには、劇場の閉館時間を遅くする、等、カンパーだけでなく劇場側、地方自治法など法制度の改正の問題が絡んでくるのは言うまでもありませんが。※ここにも劇場法が絡んできます。)

僕のいちばんいいたいところはここなのですが、僕は、単純なロングラン公演の増加よりも、再演、しかも巡演することによる再演の機会向上の方が、端的に演劇の 「公共性」 向上の一助になるのではないか? と思うのですが、如何でしょうか。

一つのカンパニーで、特に中劇場以上の規模の劇場でロングラン公演を実現しようとすると、1,000人、2,000人以上動員するエンターテインメント性の高い公演をたくさん作る必要があります。しかしそういった作品の傾向はどうしても偏りがちになります。そういった公演が幾つかあるよりも、400名、800名程度の動員であってもユニークで実験的な公演がたくさんある方が、社会の多様性やアクセス権もキープされると思います。

病院の例えでいえば、ちょっと無理筋かもしれませんが、医者が一人しかいない病院で週に7日間診療は不可能ですが、同じ病院に複数人の医者がいれば当直制で7日間診療も可能です。し、内科医だけでなく外科医、小児科医と複数の医師が在していた方が、公共性も高い。もちろん、その分個々の医師の所得をどうやって少ない診療費から保証していくか、という公共性の問題が(芸術家の所得保証の問題と同じく!)あるのですが、

あと、これも大きな問題なのですが、開演時間の問題については、個人的には、shelfで東京で公演を打つ時は基本、先にも書いたとおり平日20:00開演を原則としているので、自分たちとして出来ることはやっているつもりなのですが、難しいのは、地方に行くとお客様が帰るための公共交通機関の終電時間や、もっと困ったことには繰り返しになりますが、劇場の閉館時間などによって、19:00開演や、19:30開演が限界の場合が多いのも事実です。ここにも改善の余地があると思います。

またちょっと違った意見では、都市部であっても、一般の社会人からであっても、あまり遅いと翌日に差し支えるから、という理由で早めの開演時間を(それが平日であっても!)求める意見すらときに耳にすることがあります。

荻野さんは特に地域での文化へのアクセス権について問題視されているようですが、僕もそれは勿論、不可欠だと思いますし、カンパニー側の自助努力はなされなければならないと僕も思います。

しかし、僕はどうしてもそれは演劇業界内だけで、いわんんや個々のカンパニーの自助努力だけでなんとか出来るものではないという気がしてなりません。興業の打ち方に工夫を加えるべきだけでなく、これは荻野さんの提言以上に難しい要求かもしれませんが、演劇人も、ただ社会の変革を手をこまねいて待っているだけでなく、自ら文化政策(政治)にもっともっと関わっていくべきかもしれません。

今、米屋尚子さんの 「演劇は仕事になるのか」(彩流社)を読みながら、いろいろ自分のやるべきことについて思考を巡らせています。本業は演出家なのですが、それだけやってちゃダメだなと。

それで本末転倒になるのも嫌なのですが、

オリザさんほどクレバーには出来なくとも、あるいは鈴木忠志ほど泥臭いことが出来なくとも、文化行政に一言を持って、手当たりしだい、演劇以外のことも含めていろいろな障壁にぶつかっていかなければならないのだな、と考えています。

  • 2011.12.30 (金) 06:40
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  • Yasuhito YANO

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