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稽古場レポート 7日目 東京稽古最終日

本日は東京稽古最終日。
19時から通しの予定で、 Ort-d.dの倉迫さんも来るらしい。

用事を済ませ、なんとか通しの20分前に到着。
既に衣装を着て稽古をしていた。
照明さん、音響さんはじめスタッフも揃っている。

部屋に入った瞬間、空調のせいなのか急に咳き込んでしまう。
先月七ツ寺に泊まったときから体調が戻らない、埃アレルギーになってしまったのだろうか。
何回か出入りして薬を飲んだり、うがいをしているといつの間にか倉迫さんがいる。
挨拶をして、しばらく待つ…が、なかなか通しが始まらない

19時を回ったがまだ稽古をしている、どうやら今日は通しをしないようだ。
そのまま時間いっぱいまで稽古。
さまざまな事柄を残しつつ東京稽古終了。

はたから見ていると、矢野君は俳優と我慢比べに入ったのだと思う。
水面下では、泥臭い、しかしある種誠実な表現の戦いが行われていた。
お互いに洗面器に顔を突っ込み、どちらが先に顔を上げるのか。
それは名古屋へ持ち越されたのだ。

さて、図らずも東京稽古では芝居の完成形を観ることはかなわなかった。
少しでも宣伝の為になればと考えこのレポート(レポートなのか?)を書いてきたが、shelfの印象については初日の段階であるていど文章化にしたのではないだろうか。
自分なりにもう一度整理してみようと思う。

まず緊張感。
俳優は自分の存在する空間全てに意識をめぐらし、そこで起こったイレギュラーな音(床の軋み、足音、服の擦れ合う音)まで全てを認知する。

そして身体。
「立つ」という事を徹底的に稽古で行う、その「身体」と身体から出た「言葉」は緊張感を増幅させる。

つまり空間、身体、そしてそこに存在する目に見えない緊張感の微妙な関係がそこにはある。
俳優はそれについていつも微調整を強いられる。
何かが少しだけいつもと違うと、それを修正しない限りフィクションが成立しなくなる。
それが執拗な稽古の繰り返しの理由ではないだろうか。

表現には目に見える表現と、目に見えるがよく目を凝らさないと見えない表現が存在する。
いわゆる演劇のほとんどは前者の「目に見える表現」を行っている。
shelfは圧倒的に後者だ。
この「目に見えにくい表現」は日常では、なかなか気づくことができない。
例えば
車に興味がない人にとっては、いくら日常を暮らしていても車の情報はあまり認知されない。
ところが、いったんそれに気づくと世の中にこんなに車の情報があふれていたのかと、驚愕するはずだ。
「車」を自分の興味があるものに置き換えてみると判りやすいと思う。
世界は、みずから興味を持たない人には薄情なのだ。

矢野靖人という演出家にとって、戯曲はテキスト以上の意味を持たないのではないだろうか。
「目に見えない表現」を目に見える「戯曲」を通過させることによって、観客へ届ける。
その中により目に見えるようにする幾つかの仕掛けがある。
それは言葉であったり、身体であったり、空気であったりする。

ああ、
ここまで書いて、私は私の無力さを痛感する。
全てを言葉にする事が、今の私には不可能だ。

だが、
だがしかし、
それだから演劇という表現があるのだと思う。
私は劇作/演出家という職に足を踏み入れたのだと思う。

果たしてこれは何かの役に立つのだろうか、レポートなのだろうか。
きっと30日からのshelfの本番でも同じことを思うのだろう。

果たしてこれは演劇なのだろうか。

まとめは30日まで持ちこそうと思う。
本番が待ち遠しい。

この一週間は、私にとって、演劇のための演劇だった。
その問いかけはまだまだ続くのだ。

片山雄一

  • 2006.11.29 (水) 00:35
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  • archive::「構成・イプセン」
  • Yasuhito YANO

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