これはちょっと無視出来ない、ここには非常に重要なことが書かれている。...そんなことを思った。とても重要なことが書かれている。知を愛する人間としてもそうだし、それよりも、曲がりなりにも一人の芸術家の端くれとして、ここに書かれていることは心してきちんと受けとめなければならない。と思う。
それと同時に久しぶりに、知性の人の生硬な文を読んだという気がした。誰にいわれるまでもなく知というものは確かにある。有史以来それはずっとあった。今もあるはずだ。しかしそれが、今ほど軽くぞんざいに扱われてしまっている時代はなかったのではないだろうか? と、そのことに危機感というよりか、さびしさのようなものを僕は覚える。
最近、印刷・出版された書籍ではなくwebで手軽に読める記事とか劇評とか論文とかエッセイめいたものを読むことの方が時間的・比重的に確実に自分にとって多くなっていて、そのことについて我ながら一抹の不安というか危機感のようなものを感じてはいた。
というのも、僕は別に書籍を偏愛しているわけでも活字信仰者なわけでもないのだけれど、ネット上に溢れる文章は、文というより断片化された情報の継ぎ接ぎのように見えてくることがあって、それは本来、読書という体験が持っていた己の思考をフル回転させるというか、や回転というよりか、捻るとか、よじ切れそうになる、むりやりに己の頭の普段使っていなかった部分を抉じ開けられ、何かが引き出される、というようなそんな感覚の方が実感に近いのだけれども、
そういうことがインターネット上のテキストを読むという行為にはどこか欠けているのではないか? と感じていたからで、しかしこの日比野さんの文章には一塊の文、という印象があってとても心地よく読めた。
何故だろう。このこともまた改めて、時間をかけていつかちゃんと考えてみたいと思う。
それはともかく日比野さんの文を読んで、それに触発されてそも何が書きたかったのかというと、話しはぜんぜん飛ぶのだけれどレビューといえば僕は、山の手事情社の『道成寺』とか、何よりSCOTの名作『世界の果てからこんにちは』に始まる鈴木忠志の歌謡劇は、これもまたレビューなんじゃないか? と思っている。
特にSCOTの作品は、ストーリーを見せるというよりか、モチーフに沿ったシーンが抜粋される初期の『劇的なるものをめぐって』など、は僕は残念ながら(まあ、時代が違いすぎてどうにも観るのは不可能だったのだけど、)見ていないのだけど、その頃から続く鈴木忠志の作劇の手法の主軸の一つとして、特にいくつかの(昭和)歌謡劇についてはこれは、これも実はレビューなんじゃないか? ということをずっと思っていて、誰かそれを書いてくれないかなあ。誰もまだ書いていないよなあ、と思ったのだった。
が、こんな考えはおそらく日比野さんのこの論考の趣旨からは外れる。分かってます。はい。
http://theatrearts.aict-iatc.jp/201501/2542/