記事一覧

文化芸術は国家の重要な「柱」だ 前文化庁長官・近藤誠一

前文化庁長官の近藤誠一さん。確か元々外務省幹部だったと思う。その経験が大きいのだろうか、この人の文化政策に関する言葉には、本来芸術の分野を専門とするアーティストやアーツマネジメントに携わる人たちとは少し違った、しかし強い説得力がある。私たちは(私たちも)日ごろからの実践の上に、斯様な力強い言葉を持たなければならないのだと思う。

以下、産経ニュース(2014.6.11)「正論」から引用。

ファイル 1168-1.jpg

 ≪短絡的な「右傾化」批判≫

 最近、友人のアメリカ人に、日本は「右傾化」しているのかと聞かれた。私は次のように答えた。

 「確かに日本全体が、右方向にシフトしていると思う。ただその内容は多様で、全体像の把握が困難だ。そして社会があるべきバランスに戻ろうとしている好ましい要素がある。だから軽々に右傾化と決めつけるべきではない」

 具体例を挙げれば、日本の若者の間に伝統文化を再興しようという動きが高まりつつある。最近も神奈川県の藤沢にある私立大学の講義で、伝統工芸の継承者育成などを支援するいくつかの小さなNPO(民間非営利団体)の話をしたら、帰り際に2人の学生が教壇に来て、そのNPOの連絡先を教えてほしいと言った。

 また京都の教え子からは、能や和歌などの古典を題材にしたマンガがいま流行(はや)っていると聞いた。彼らが日本とは何か、日本人とは何者かを考え始めているとすればそれは心強い。

 日本は明治の富国強兵や、戦後の経済再建にもてる資源を優先投入し、世界が驚く成功を成し遂げた。しかしその裏で2つのことが起こった。

 ひとつは文化芸術一般がもつ力の軽視、もうひとつは欧米崇拝の裏返しとしての日本の伝統文化の軽視である。その結果素晴らしい文化財や芸術家などの文化資源があるのに、成熟した先進国のステータスともいえる文化度の向上につながらない。

 文化芸術には5つの力がある。

 第1は個人に与える力である。表現力を高め、他との共感・協働を可能にし、人生を豊かにする。

 第2は社会・経済に与える力である。文化芸術の発展は観光や創造産業を生み、経済効果をもたらす。ある調査によれば、生産誘発係数は、公共事業に比べてやや低い程度で、そこに数字にならないが、精神的なプラス効果が加わる。また障害などの理由で社会の中心になれない人びとの才能を発揮させ、社会に包摂していく。いじめや不登校を減らし、障害者などに生きがいを与える。

 第3は国のイメージ向上だ。漫画やアニメ、和食を日本文化への入りやすい入り口ととらえ、日本語を学び、伝統文化の魅力にとりつかれる外国人が増えている。

 ≪現実呑みこむ懐の深さ≫

 第4は社会全体に与える力だ。文化芸術が与える「ひらめき」の力はビジネスでのイノベーションを進め、社会デザイン力を高める。また過去の成功体験の中で出来上がった「常識」という名の固定観念からひとを自由にしてくれる。個人が組織防衛の軛(くびき)から解放され、壁を越えて、良心に従って行動することは日本がいま最も必要としている力だ。

 第5は、文化財などを通じて先人たちの知恵を学べることだ。

 近代化の下での経済優先、短期成果主義、効率重視の風潮の中で我々は、こうした価値を見逃してきた。長く伝わる精神性や生きる知恵を、政策的に、あるいは無意識のうちに軽視してきた。

 日本画などの文化財や伝統芸能は、日本人には独特な自然観や繊細な美意識、すべてを善か悪かで割り切らずに現実を呑(の)みこむ懐の深さ、目に見えない価値を認識する能力があることを教えてくれる。これらは21世紀の地球の文明を考える上で重要な心構えだ。

 また伝統芸能は人間関係の難しさを先達がどのように乗り越えてきたかを伝えてくれる。世の中には百%の善人も、百%の悪人もいない。義理と人情などの価値の相反にどう対処すべきかには正解がない。ネットで検索しても答えは得られない。文楽や能などはそのヒントを教えてくれる。

 そうした貴重なものを失いかけていることに警告を発したのが、フェノロサやラフカディオ・ハーンのような外国人である。最近都内の劇場で再上演された『日本の面影』は、明治20年代の科学主義、物質主義、欧州礼賛という社会の風潮と、それに対するハーンの嘆きを伝えてくれる。私の周りにもこうした外国人が多い。

 ≪狭量でなく開かれた自信に≫

 バブルの絶頂期に、芸術文化を生活に浸透させることによって国民に精神的充実感を与えるシステムづくりを怠ったまま、デフレ期に入ってしまった。日本人の幸福度が低いことはこれと無関係ではあるまい。文化芸術は暇とカネのあるひとの贅沢(ぜいたく)だとする風潮が広がってしまった。

 東日本大震災直後の「自粛ムード」はその表れだ。「被災者の方々が苦しんでいるときに、歌舞音曲などとんでもない」という発想が生まれ、広がったのは、文化芸術は国防や経済とともに国家運営の重要な柱であるとの認識がないからだ。そのころ企業が生産活動を続けるのはとんでもないと考えるひとがいただろうか。

 こうした現状への反省が国民の間に生まれ、NPOや学生などの行動につながっていくとすれば、日本人の底力を表すものとしてうれしい。それが狭量なナショナリズムでなく、世界に開かれた自信と誇りに発展することを願う。(こんどう せいいち)

  • 2014.06.16 (月) 11:40
  • Permalink
  • 装置としての演劇、あるいは
  • Yasuhito YANO

トラックバック

この記事のトラックバックURL
https://theatre-shelf.org/diarypro/diary-tb.cgi/1168

トラックバック一覧