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fringeブログ「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない」への異論(1)

fringeブログ「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない」を読んで、少なからず違和感を感じたのでクローズドのSNS内で(主に)荻野さん向けに自分の記事を書いたのですが、この記事が同時に自分の「公共性」というものに対する意識表明にもなっていると感じたので、外のブログにも公開することにしました。

注)荻野さんが既にこのブログエントリに続けて次のエントリを書かれていて、(「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない(2)」 )僕の違和については、そこで応答されている部分が多々あり、違和感もだいぶ緩和されてきたのですが、このエントリは(2)が書かれる前に書いたもので、前後する問題意識が書かれています。つまり時間軸が前後しているのですが、それを踏まえて読んで頂けると有り難いです。

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先ずもって、「公共(public)」とは「私(plivate)」や「個(individual)」に対置された概念ですから、少なからず不特定多数の一般の観客(すなわち「社会」)に大して開かれて(いるハズの)公演に、その公演日数が短すぎたり開演時間が早すぎるからといって、「公共性がない」と断じるのは暴論だと思います。公共性が高い、低いという議論であればともかく。

ですが、ここではより細かく、今回、僕が感じた荻野さんのブログエントリに対する違和感について少し丁寧に解きほぐしてみたいと思います。

「演劇の公共性を考えたとき、その作品に容易にアクセス出来るかは重要な観点だと思う。」

先ず僕はここに、この論について、ちょっと違和を感じます。ここだけを取り出して批判するのはブログ全体の荻野さんの主張から的外れになるかもしれませんが、しかし荻野さんの主張に反して、この論は、大都市生活者の利便性重視の生活スタイルに寄り添い過ぎているのでは? つまり、東京の生活スタイルに荻野さん自身、影響を受け過ぎているのでは? と思います。アクセスできないものは公共性がない、というのであれば納得もいくのですが、“容易に”アクセスできない、ものについてまで公共性がない、と断ずるのは、どうかと思います。

東京や関西のような演劇公演の盛んな地域以外に住んでいる人はもちろん、それ以外の地域に住んでいる人でも、本当にそれを必要としている人は、優れた舞台芸術は、人は仕事を休んでも観に行きます。

それを自分の人生に必要としている人であれば。

ツイッターでも書きましたが、話はズレますが、いずれにしても、先ず「公共性」という言葉を一義的に公費を投入することを是とするための盾に使うのはよろしくないのではないかと思います。

その意味で、僕はオリザさんの、芸術も「これからは国際競争力だ」という理にも違和感を感じているのですが、これはまた別の機会に論じます。

(ただ、日本の多くの演劇人が、公費で海外に行って、そこで勉強はしてくるけれども、結果としてそのまま海外を自分の活躍の場にしていかない、そこで稼ごうという気概がないのでは? という問題意識は、これは別の人の論ですが、理解はできます。それでもどこか、オリザさんの論、乱暴に言えば、「公費を投じて支援すべき芸術は国際競争力のあるものだけだ」という論は、市場の論理(資本主義)に影響を受けすぎている気がします。 )

話を元に戻しますが、“現代芸術”じゃなくなってしまいますけれど、奥三河の花祭りとか、その他のいろいろな地方に今も残されている伝統的なお神楽とか、公費が投入されていなくても公共性の高い舞台芸術はたくさんあります。花祭りなんて、わざわざ都会に出て働いていた若者たちが地元に戻って参加していますし。まあ、これは芸術というよりか芸能というべきかもですけれど。

あと能・狂言とか数か月に数度しかしない公演もありますし、利賀村の様な場所であったり、あの場所は本当にアクセスが悪いですから荻野さんの理論だと公共性が「ない」ことになってしまいます。でも世界中から名だたる演劇人が集まって、世界でも稀有な、文化を醸成する「場所」になっていると思います。

ここで一つ重要な問題意識として、「公共性」を担保するべきはカンパニーか劇場(「場所」)か。という問題があるのですが、それはちょっと脇に置きます。可能であれば後述させていただきます。

いずれにしても「公共性の有無」と「アクセスの利便性」は別にして考えるべきだと思います。

論理をちょっと端折って書きますが、荻野さんの論理を推し進めると、全国どこでも一律に上質な公演が平易に観られるべき、となってしまいやしませんか?

それこそ、悪しきグローバリズムとはいいませんが、全国どこに行ってもあるユニクロやスターバックスのような、(ユニクロやスターバックスに悪意があるわけではありません。あくまで一例です、むしろユニクロやスターバックスは個人的に愛好していますw 悪しからずご了承ください。)

あるいは、どこの地方都市に行っても同じ景観しか見られない都市郊外の幹線道路沿線のような、全国一律の多様性なき文化が生まれてしまう気がします。

もちろん、荻野さんが本当に危惧されているのは、演劇の公共性、というよりか、もっと具体的に、市民が文化を享受するための豊かさそのものにアクセス出来ること、それ“すら”できない人が大勢いるという日本社会の「環境」のほうでしょう。日本には本当に、余暇の過ごし方はパチンコとカラオケ、というようなさびしい地方が沢山あります。東京だって、飲み会や合コンが余暇のすべてという人、よくてディズニーランドや映画館にデートに行くという人が少しいるくらい? もちろんそれらを一概に否定することはできませんが、そこに文化を享受する際の可能性、多様性の確保ができているか否かという社会問題はあると思います。

という、つまり問題は演劇のアクセスの利便性ではなく、市民が否応なく置かれている状況/意識の方にこそ問題がある、ということだと思うのですが、如何でしょうか。

そしてこの問題は、「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない」という論理では打開できないと思うのです。

あと、平日夜公演の開演時間等については、twitterに劇作家の夏井さんも書かれていましたけど、サービス残業があって当たり前、有給も自由に使えないというこの日本の就業状況のほうにこそ問題がある気がします。ちょっと問題が大きくなってしまいますが。

僕は、この「公共性」を考えるとき、余暇の使い方に豊かさがない。という以前に余暇を楽しめる余裕がない日本の社会に問題がある気がします。これは演劇業界、演劇団体が個別に頑張ってもどうしようもない問題で、もっと政治的な働きかけが、すなわち日本の「文化政策」の抜本的改善が必要だと考えます。これからの後期資本主義社会、そして少子高齢化を迎えて行き、創造性がますます発揮され難くなる日本の社会がどうあるべきか、どうしていくべきかというビジョンが市民一人一人に問われている気がします。

経済的な問題としては、具体的な解決策としては、ワークシェアリングとか、育児休暇やその他福利厚生の強化とか、今ちょっとその程度しか思いつかないですけど、社会を変えて行くことの方が先で、ずっと重要だと思います。

とはいえ、手をこまねいて社会の変革を待っているワケにもいかないので、僕たちshelfは僕たちで出来ることを考えています。

今のところ、僕は東京での公演日数を増やすことよりも、(もちろん、週末を挟んだ一週間以上の公演の実施は小さなアトリエ公演に限ってですが、しばしば試みていますし、状況が許す気限り平日20:00開演も実施しています。が、)観劇機会すらないような出来るだけたくさんの「地方」(という言葉を敢えて使いますが、)での上演、作品の再演の機会を増やすことで、作品そのものとは別個の「公共性」を担保して行くことはできないか、と考えています。

その割にはまだ都市圏しかまわれていないので、まだまだ努力が必要なのですが。

  • 2011.12.30 (金) 05:51
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  • Yasuhito YANO

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