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最終レポート shelf名古屋初日

演出と俳優、スタッフのコミュケーションは、開場10分前まで続いていた。

そのためどうしても慌ただしが残り、若干の混乱の中、観客は受付から劇場へと入って行った。
演出家は本当に最後まで粘ったのだ。

劇場に入ると、俳優達はすでに舞台上に待機していた。
全く動かない俳優達の身体が緊張感を作り出している。
照明は直接彼らを照らし出すのではなく、全てが間接照明によって作り上げられている。
形だけは西洋的で、古びれた感のある衣装。
それらが混在となり、クラシカルな、それでいて幻想的な印象を受ける。

しばらくしてどこからか、ノイズのようなとぎれとぎれの音が聞こえる。
それが俳優の一人レギーネ役の佐直由佳子(第七劇場)の口から発せられた歌だと気づくのに、そう時間はかからなかった。

芝居が始まった。
今度はノーラ役の川渕優子(shelf)が口を開く。表題や役の紹介をする。
『構成・イプセン-Composition/Ibsen』
この作品はそうやってつくられた。
芝居の始まりは、僕の稽古場レポートの終わりだ。

僕の仕事は、普段観客が触れることのない稽古場でのレポートを書く事によって、少しでも観客が劇場に足を運ぶ手がかりになればということだった。
なのでこの後は僕が書くべき事ではないと思っている。

だが、このレポートを読んでくれた人の中には、もしかしたらヤキモキしてフラストレーションが溜まる人もいるかと思う、当たり前だ。
なのでもう少しだけ。
他の方が書いた文章を紹介する形でご容赦願いたい。
まずは演出家、矢野靖人の書いた文章を紹介する。

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■ 戯曲「幽霊」 について

ギリシャ悲劇にも比せられるイプセンの傑作。三幕の家庭劇。愛のない結婚を否定しつつも、因襲的な観念に縛られて放縦な夫のもとに留まり、夫亡き後も家名を守るため偽善に終始してきたアルヴィング夫人。夫の偽りの名誉を讃える記念式典を前に、可愛い一人息子のオスヴァルが、病を患って帰ってくる。帰国した息子は夫人の召使いのレギーネを自分の伴侶にと望むが、彼女が他ならぬ彼自身の異母妹であることを知らされる。

親の犯した過ち。その償いをさせられる子。誰もが無自覚なままに繰り返される悲劇。―――法や道徳、宗教への不敬、近親相姦や自由恋愛の擁護、性病など当時の社会ではタブーであった様々な題材を取り扱いながら、近代以降の人間の精神の在り様に迫る、イプセン代表作の一つ。

「わたしたちには取りついているんですよ、父親や母親から遺伝したものが。でもそれだけじゃありませんわ。あらゆる種類の滅び去った古い思想、さまざまな滅び去った古い信仰、そういうものもわたしたちには取りついてましてね、そういうものがわたしたちには、現に生きているわけではなく、ただそこにしがみついているだけなのに―――それがわたしたちには追い払えないんです。」 

■ notes

イプセンは創作に際し家庭劇、ことに現代劇にその基礎を置いた。それは一般に、当時の生活状況や道徳問題について、自らの批評や疑問を紹介するためであったと云われている。しかしながら現在、彼の戯曲がいまだ有効なのは、そこに提示された疑問や批評そのものによってではない。むしろその疑い続けるという姿勢そのものであり、酷薄なほど徹底した人間に対しての客観、悪意にも似た冷ややかな視線がそこに内在する故である。

戯曲「幽霊」において描かれる幽霊とは即ち、広く人間の因襲のことである。そしてまた、遺伝・宗教・社会制度・歴史・家庭等、人間を規定する――しかし実体のない――人間を取り巻く様々な枠組そのものをも含意している。

我々は日常、様々な慣習や常識・理性や、広くは文化といった後天的な制約によって、かろうじて社会と精神の均衡を保っている。にも関わらず「幽霊」は、そこには実はなんの根拠のないことを暴いてしまう。それらすべてを「幽霊」にすぎないと断じ・切り捨てたとき、わたしたちの眼前に日常の深い裂け目が顕わになる。

わたしはその場に立ちすくむ。

足元が揺らぐ。

逃れようとしても決して逃れることはできない、のっぴきならない現実に眩暈を覚える――

「構成・イプセン ― Composition / Ibsen」は、イプセンの戯曲「幽霊」を主軸に、同じく「人形の家」はノーラのテキストを補助線として、近代以降の人間の精神の在りようを改めて検証する試みである。

ギリシア悲劇にも比肩せられる本戯曲の圧倒的なカタルシスをご期待頂きたい。

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そして名古屋の評論家亀田恵子さんの書かれた文章を紹介する。

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『幽霊』とは、何だろうか?私たちの生きるこの時代における『幽霊』とはいったい、何者なのだろうか?

 客電がついたままの場内。うす暗い舞台上には、5人の役者たちがすでに存在していた。イスに腰かけたり、膝を抱えたまま顔を伏せたりしているが、彼らはピクリともしない。三方向を壁に囲まれた出口のない空間…舞台上には異常ともいえるような張り詰めた空気が流れ、白い衣装を着た女/ノーラ(川渕優子:shelf)が足先を舞台上からわずかにはみ出し座っていることで、舞台空間は外とのつながりを辛うじて保つという奇妙さを漂わせている。静謐なはじまりであった。

 舞台中央には簡素なイスが一客置かれ、そこには愛のない結婚を否定しながらも自らは立ち上がることの出来なかったひとりの未亡人、ヘレーネ・アルヴィングが座っている(三橋麻子:Ort-d.d)。タッチライトに浮かぶ身体の輪郭と、自らの影に沈んだ彼女の顔が一瞬、不気味に微笑んだように見えたあと、彼女の中に同じくイプセンの作品『人形の家』の主人公・ノーラがオーバーラップした。無機質な舞台空間がアッという間に古びた居間に転じる。そこでは彼女と子供たちの弾むような会話が展開するのであるが、子供たちの姿は見えない。彼女の声の抑揚によって、観客は子供たちの存在を感じはするものの、そこに実体はないのだ…アルヴィング夫人の中に棲みついたノーラが、ここで既に過去の遺物として描かれているのだろうか。自らの正義と、真実を求めて愛と家庭(子供を含み)を捨てた女の影が、彼女の中に存在していることが興味深い。

ト書きが読みあげられ、静止していた人物たちが起動した。「…マンデルス、牧師。」そうコールされたマンデルス(木母千尋:第七劇場)のリアクションはコミカルだが、非常に示唆に富んでいる。彼は自分の名が呼ばれると目覚めたように顔を上げるのだが、「牧師」と使命を受けると驚いたように自分を指さし、そして了解するのだ。これは、この物語の悲劇的な要素の核ともなるべきポイントのように私には思われる。人間は自らの意思で、この世に生まれてくることもなければ運命なるものの存在を知るすべを持たない。私たちの多くはマンデルスのように、無自覚に『自ら』を受けいれていくが、疑問のない受容がどれほど悲劇を生むかということ、この意識が本作品の大きなテーマにもなっていると感じたからである。

 本作品は多くの『異和』を含んでいる。含んでいるというよりも、むしろそれらによって仕組まれた虚構のイリュージョンだといえるかも知れない。

 アルヴィング夫人の息子、オスヴァル・アルヴィング(凪景介:Ort-d.d)の登場などはまさにそれを体現している。彼は舞台上に、観客の見える場所にはじめから存在していたのであるから、その人物が虚構の中の虚構に登場するにはこういった切り口が必要なのかも知れない。静かに舞台奥から歩をすすめ、右手からアルヴィング夫人とマンデルスが会話をしている居間に入って来るのだが、突然大声をあげ、アルヴィングたちの前を転がりながら左手に移動する。立ち上がっての彼のセリフは「失礼??書斎の方かと思ったもんで。いらっしゃい、先生。」というものである。大声で叫び、目の前を転がったあとで「失礼」も何もあったものではない、本来ならば。こんな異和がこの虚構空間では常套ルールとして場を支配し、観客はそのルールを驚きの中でキャッチしながら作品へと入っていく。見えていないもの、見えているもの、見えるはずのないもの…それらが、音楽の旋律にも似たセリフの、独自な解体によって提示され、観客はこういった状況の中で『幽霊』の登場を待つことになる。非日常では説明不可能な存在について、この作品はそれを説明可能にするシステムを持ったといえるだろう。『幽霊』とは何か、冒頭のこの問いがあらわになっていく。

わたしたちには取りついているんですよ、父親や母親から遺伝したものが。でもそれだけじゃありませんわ。あらゆる種類の滅び去った古い思想、さまざまな滅び去った古い信仰、そういうものもわたしたちには取りついてましてね、そういうものがわたしたちには、現に生きているわけではなく、ただそこにしがみついているだけなのに???それがわたしたちには追い払えないんです。」アルヴィング夫人は作品の中で言う。ここで言われている遺伝とは、この作品が発表された時代に1つの衝撃となって受け止められた性病という点への指摘だけではないだろう。現代的な事象に例えるなら、幼児虐待を受けて育った子供のその後や、自殺者を親に持つ子供の未来といったことに置き換えることも可能だ。古び去った思想や信仰への指摘だが、これは(私個人の考えにもよるが)それを享受する人間の側の形骸化である。マンデルスが、自分に牧師という天職が担わされたとき、なぜ何の疑問も苦悶もなく受け入れたのかということと同じである。思想そのものは時代を反映するという点でいえば、確かに古くなる存在であることは否めない。しかし、もっと問題なのはその思想に対する私たちの側の意識ではないだろうか。与えられたことに対して自問自答を忘れ、そこから派生する問題への意識、また感謝を忘れた者に、真のいのちなど存在するだろうか?これは思想の受容だけにとどまらない。『生きる』ことを問い、苦悶し、立ち上がろうとしない人間への警鐘であろう。舞台中央で『幽霊』を恐れるアルヴィング夫人はすでに、生きながらにして『幽霊』と化しているのだ。

ラストシーン近く。今や、二人きりとなったアルヴィング夫人とオスヴァルは夜明けを迎えながら、徐々に明るさを取り戻しつつある居間にいる。窓からはキラキラと輝く氷河と山々の峰が壮絶な現実をあざ笑うかのように見え、先ほど出て行ったはずの異母兄妹のレギーネ(佐直由佳子:第七下劇場)が、アルヴィング母子の様子を腕組みをしながら見ている。異母兄の、犠牲者としての最期を見つめる目はどこか他人事のようでもあったが、いよいよ兄オスヴァルが発作のあとにグッタリと子供ようになり、母アルヴィング夫人が絶叫するシーンでは悲しげな表情を浮かべた。それは今なお、止むことなく続けられる無自覚な受容と、自ら立ち上がろうとしない私たち自身、その犠牲となって死んでいく何か…そんなものを見つめる視線と重なる気がした。演出家の矢野靖人がフライヤーで観客に約束した『圧倒的なカタルシス』が、もしかしたらここに成就していたのかも知れない。

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最後に一言だけ、僕の感想を。

もしこのレポートに興味を少しでも持っていただけたのなら、是非劇場へ足をお運びください。
演劇とは文学の立体化ではなく、また一部の人間が占領する表現ではない。

私とあなたの間にある、目に見えない、しかし確かにそこにある何かを目に見えるようにする表現なのだ。

shelfの表現はまさにそれだった。
稽古場レポートはその苦闘の跡だった。
その行為そのものが、演劇なのだ。

片山雄一

  • 2006.11.29 (水) 00:45
  • Permalink
  • archive::「構成・イプセン」
  • Yasuhito YANO

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