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何のために?

今日はもう一つ。僕の恩師にあたる、とある演出家の1人から、公演が終わって後に一つの問いを投げかけられました。引用すると、

テーマ(サルトル)も、そうだし、よく分からなかった。中身も、なぜ今これをやるのか? も、今これをやって目の前の観客に何を届けたいのも。矢野君は今回の公演を何のためにやったのかな?

これについてきちんと、人目につくところでちゃんと応えておきたいと思います。

根本的な問いです。回答することはとても難しい。けれど、突き詰めてしまえば僕はいつも、僕(ら)なりの“エンターテイメント”作品を作っています。お客様にはやっぱり観劇を楽しんで頂きたいし、ばかりか一緒にいろいろなものを感じたり、考えたりしたい。

shelfの公演に関しては、僕たちの基本姿勢は、観客に何かしら完成した“商品”を買って頂くのではなく、時と場とを共有した上で、他者との出会いを言祝ぎ、普段、煩雑な日常に埋没してうやむやになっっていたり通り過ぎてしまっている、人間の存在が(真実が)顕現する、そのような場を、私たちの演劇においては、観客と一緒に作りたい。と、常々そう思っています。

それは例えば、学校の語源がスコラ、即ち知識の追求という自由を意味していたように、エンターテイメントといっても狭義のそれではなく、いわゆる日常を“忘れる”ためのレジャーでもなく、日常の中に潜む深い裂け目、断裂のような、非日常を見下ろすような、そのようなことを楽しむ、考える、体感するということを劇場体験として、観客と共有したい。ということでもあります。

今回の作品に関していえば、サルトルの「出口なし」は、本来の仏語のタイトル「huis clos」が閉ざされた扉を指す言葉から転じて裁判用語で、「接見禁止」というのがあり、それについてはこのブログで演出ノートとして幾つかを書いています。

ysht.org|パノプティコンもしくはパンオプティコン(Panopticon)邦訳は一望監視施設について
http://theatre-shelf.org/diarypro/archives/1281.html

サルトルの戯曲『出口なし』が、地獄に落ちた人間の極限状態を描いているとして(じっさいにサルトルがそれを意図していたかどうかはともかく、)一読して僕がイメージした空間はしかし、“地獄”というよりかむしろ“現実”世界そのもので、しかもそれがディフォルメされたような言説空間であって、そしてもう一人の20世紀の偉大な思想家ミシェル・フーコーが、自著『監獄の誕生―監視と処罰』のなかで「主体化の装置」の一つとして転用、社会のシステムとして管理、統制された環境の比喩として用いたことで有名になった“パノプティコン(一望監視施設)”だった、という。

誰にとっても何ものでもないって、天国だろうか、地獄だろうか。
「ところであなたは、人間が、自分の主義どおりに生きていくのを、悪いことだと思いますか。」
(サルトル「出口なし」伊吹武彦訳)

いつまでたっても死んでいくだけ。
死ぬことが済む時は来ない。
「もう希望はない。けれども、僕たちはやっぱり以前なんだ。僕たちはまだ苦しみはじめちゃいないんだ。」
(サルトル「出口なし」伊吹武彦訳)

鏡がなくても自分の手足を見ることはできるけど、鏡がないと自分の顔を見ることはできない。それだけで自分の境界が薄れて漂うような感覚。
「あんたはあたしの顔まで盗んじまったんだ。あんたはあたしの顔を知っているのに、あたしは自分の顔を知らないんだ。」
(サルトル「出口なし」伊吹武彦訳)


この3つの台詞とメモ書きは、川渕優子が稽古中にfacebookに書きとめていたものです。「出口なし」を上演するに当たっては、僕もだいたい同じことを考えてはいましたが、それでも彼女の視点からの、彼女の演技を通して訴えられる切実な問いはいつもとても恐ろしく、かつ新鮮で、世界の見え方が変わるような感覚に陥ります。

[...]撮影に集中してしまったので的確な表現ではないかもしれないのですが
いつになく緊張感のある空気感でした
空間と光も闇が締まって心地よかったです
足や指先や少しの振動
それぞれの心のぶれやぶれないところの表現を
もっと集中して見たかったです。
永遠に交わらない地獄、誰からも理解されない地獄….。
恐怖に浸って考えてみたかった[...]

と、これはもうずっと10年近く一緒に仕事をしている札幌出身の写真家の原田真理さんが寄せてくれた感想です。

こちらは、僕の大切な友人がfacebookのshelfのページに投稿してくれた感想(?)。

「shelf観劇、雑感」

今日というかもう昨日ですね。初日を拝見しました。

最初に驚いたのは「二本立て」ということを劇場に着くまで知りませんでした。(『初期型』というタイトルなのかと勘違いしていました。すみません)

と、ここで普通ならば感想を書くのでしょうが、まず手が止まるのは「面白い」「つまらない」と、簡単に言語化して良いのかという問題です。

かなりサルトルと向き合わざるをえない企画意図なのでしょうか。

ここに何かを書くこと自体、あまり深く考えるとサルトルの掌中から抜け出せない「勘」が働きます。

「必要か」「不必要か」という感想の問いならば「必要」です。

なので何かに例えようと思うのですが、もともと上演時間が長い作品であることと、shelfと初期型の二本を観終えると、どうも「能」と「狂言」の関係に近いかなと、思い当りました。どちらがどちらとも言い切れないのですが、二本観ると、確かにそこには「必要な何か」がある公演でした。

「能」には基本的に主人公の幽霊などが、自分の完結した人生を追憶する型があります。
また「狂言」は「狂」と言いながらも、笑った素顔で「口語」を話し、幽玄の世界から、日常へと観客を呼び戻す役割があります。
通常「能」とセットで「狂言」は行われていたと、学生の時に習い、体験したのですが、それに近い感覚が呼び起されました。 

順番やカップリングなど、どこまでが企画者の意図なのか解りませんが、両カンパニーにとって、とても有用な二本立てでした。

観客まで含めかなりサルトルの思考に晒される体験だったと思います。

それ以上の事はただの「アンガージュマン」なのかも知れないですし、ただ何も書かなければ「Hell is other people」になるのかも知れません。
もしかして「まなざし」や「あらわれ」に「とらわれ」ているだけ、なのかも知れません。
 
どうやら矢野君の書いた「邦訳」辺りを手掛かりにすると、あまり疑わなかった方向から思考の手がかりは掴めそうです。

この戯曲を作品にする、その行為自体が、関わった人々で相互に問い詰めあう初日公演だったのだ、と感じています。

あと一日、昼夜二公演の成功を祈っています、ではないかな。
言い直します、成功を願っています。
では。

片山雄一


ファイル 1287-1.jpg

[...]中身も、なぜ今これをやるのか? も、今これをやって目の前の観客に何を届けたいのか・・・? も。矢野君は、今回の公演を何のためにやったのかな?[...]

きちんとお応えすると、取り敢えず、今、自分の立っている場所はこういうところです。

お楽しみ頂けなかったのは残念ですが、ご覧頂けて、問いまで投げかけて頂いて本当に嬉しかったです。またゆっくりどこかでいつか、きちんとお話しをさせて下さい。

ではまた。この度は遠いところから足をお運びくださり本当に有難うございました。
 

  • 2015.05.07 (木) 13:08
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  • Yasuhito YANO

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