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思考するための体力、あるいは必要とされる深い呼吸について

新作公演を終えてようやく人心地ついた日を過ごしています。といって、来週の週末には、次回作「三人(姉妹)」(いかだ辺境劇場(主催/NPO法人らふと)参加作品)への出演者募集ワークショップ・オーディションがありますし、

6月には単身また渡欧してシビウに行く予定があるのでその準備を(プレゼン資料の作成とか)しなければだし、8月からまるまる一ヶ月以上、9月の上旬まで利賀村に長期滞在する予定なので、そんなにのんびりもしていられないのですが。

今回の「出口なし|Huis clos (1945) 」のクリエイションでは、人間の“業”についてずっと考え続けていました。もちろん一方で西洋の哲学・思想の系譜を理解するに“業”という、僕らにとってはなんとも特別な言葉を使って勝手に何かサルトルについて分かったように振舞うのだけは極力避けねば、と心に記してもいたのですが、

人は日々、いろいろの煩雑さに紛れて、流されてなんとなく生活しているけど、生と死はいつも隣り合わせで、すぐそこに深い断裂があったりする。しかしそれを、たぶんみんな見ないように、見ないようとにしながら人は生きているのだなあと。それ自体は、決して善いことでも悪いことでもなく。そんな、ささやかですが、確実な人間の何か大切なところに触れることが出来るような作品に仕上がったと思っています。

フェス自体はまだ折り返しですが、他の団体の作品を観ながら、思考の基礎体力、言葉を扱う呼吸の深さ、演出という作業の峻厳さについて考えさせられ、またそのような地力の“足りなさ”を痛切に感じています。己れについてはもちろん、フェスの参加作品を見ていて、本当に今、舞台芸術を取り巻く環境は無残で、まるでなっちゃいないなあと。

例えば、演出ノートについても、共通で10名の演出ノート(500字程度)がA3用紙一枚に書かれた当日パンフレットが劇場配布されているのですが、それがどれも読んでいてまるで詩(ポエム)か何かのようで、誰もきっといい歳したおっさんおばさんのハズなのに何とも夢見がちで、や、僕もかなり夢見がちでなかなかレアリストたれないという弱みは自覚しているのですが、それでもあれは、酷い。

言葉を扱うときに僕はいつも、深く潜ることの出来る力、というものをイメージします。そもそもじっさいに深い呼吸法を身につけていないと、思考も浅くなる。だからこそ僕は必ず稽古場では俳優と一緒にベーシック・トレーニングを欠かさないようにしているのですが、事実、舞台芸術の演出というものには、“身体で考える”ことの必要性というのがあって、直感とかインスピレーションというものも頭だけで考えててもなかなか生まれない。

と同時につかんだ直感やアイデア、閃きを手放さずにググッとそこを踏み込むというか、そもそも何か時間と空間を構成するという作業には、思考の体力、言葉を扱う身体の地力とでもいうものが不可欠で、閃きをつかんだその瞬間にそこをぐっと堪えて、呼吸を深くして長時間にわたって思考し続ける、掘り下げるということが、体力がないととても難しい。

換言すれば、閃きやアイデアを披瀝したり、解釈を講釈したり、ただ単に自分の好きなもの、個人的に面白いと思ったことばかりをだらだら並べ置くだけでは、それを演劇の演出とは絶対に呼べない。

そういう、いわば事物を正しく“考える力”が東京、日本で、演劇の世界だけでなく全体的に地盤沈下を起こしているのではないか? という強い危機感を持っています。

言葉、言葉とばかり言っていると、いやいや、舞台芸術とはけっきょく言葉に出来ないことを表現しているのだ、という反論が聞こえてきそうですが、そんなのは当たり前の大前提の話で、みんな言葉を軽んじすぎている。

本当に言葉に出来ない作業なのであればそれはスポーツに近い。というか、スポーツの感動を超えられない。僕は自分の演劇で、例えばウサイン・ボルトの100mの感動を超えたい。(ちなみに僕は、ボルトの走りを見るともう、感動して、全身が泣き出しそうになります。)

演劇はやはりどこかで、発語する身体と言葉、物語、歴史や社会という言葉で構成されたものと人との関わり方や摩擦や断裂を描くのでなければ、スポーツには勝てないと僕は思うのです。
 
 
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ウサイン・レオ・ボルト(Usain Leo Bolt) |1986年-
ジャマイカの陸上競技短距離選手。人類史上最速のスプリンター。オリンピック陸上競技100m、200m、4×100mリレーの3冠を2大会連続で達成し、通算6個の金メダルを獲得。世界陸上競技選手権大会の200mと4×100mリレーを3連覇し、100mとの3冠を2度達成し、最多タイとなる通算8個の金メダルを獲得。100m、200m、4×100mリレーの世界記録保持者。



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  • 2015.05.07 (木) 12:41
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  • 俳優あるいは演出のための方法についてのメモ
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  • Yasuhito YANO

発語という行為

チェーホフにしろシェイクスピアにしろ、岸田國士や三島由紀夫、サラ・ケインやベケットにしたって、そのテキスをを発語する際にいちばん肝要なのは、美しい日本語とか、語の意味がちゃんと伝わるとかでなく(それは大前提だ。)ただ、その発語を的確に“発語行為”とすることが出来るかどうかだ。

そこのところについては相当、shelfでは都度、現場で徹底している。徹底して俳優に要求するし、己れには徹底して言語化出来るようそれを課している、ただ、それは別段、うちに限った、限定的な方法とか理念とかではなく、すごく普通の、ど真ん中のそもそもの演技ということの本質だと思っている。

それはたぶん、いわゆるスタニスラフスキー由来のリアリズム演劇にも通じるし、と同時に能狂言や歌舞伎、文楽などの、例えば日本の古典芸能にも通底しているし、おおげさにいえば、近代以降の人間理解だけでなく、近代を超克すべき道筋の一つでもあり得るのではないか、とも考えている。

台詞を発語する、それを如何に“(発語)行為”として成立させるか。については、しかし以外に要件はシンプルで、ただ、一人で演らないこと、そのことに尽きる。如何に相手役や観客や空間、あるいは自分自身の身体や心を“使って”演技を組み立てるか。

常に環境と自己との間の回路を“開き”続け、つまり“感覚”を“開き”続けて、如何に即興的に受け取ったことを即座に自分の演技にフィードバックし続けるか。

なんていうと頗る複雑で難しい作業を俳優に課しているように思われるかもしれないが実は演技する、ということについてだけいえばかえってその方が、“楽”になるのだ。楽になるというのはつまり、如何に台詞を美しく喋るかとか、どう演ずるかなどといった邪魔な自意識に煩わされずに済むということだ。

俳優あるいは演出のための方法についてのメモ 201504

言葉を身体化するために

稽古場でときどき、台詞をただ普通に吐く息として喋るのではなく、言葉を一語一語(自分の目の前の/あるいは自分の頭上とか、劇場内はどこかしらの)空間にまるで物質か何かのようにしっかりと置いていくように。と俳優に命ずることがあるのだけど、それにはたぶん僕の中に、先に引用したミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』の最初の短篇、ホルの一人語りで、ホルが自分の住んでいる不可思議な迷宮内で、過去に不用意に発した自分の「声」に再び遭遇して驚く(からこれ以上大きな声で喋れない。)という下りがってその強烈なイメージが僕の身体の内側に谺しているからなんだろうと思う。

と同時に言葉について、いつも考えるときに思い浮かぶ一つの立像があって、それがこの「空也上人立像」なのだった。
 
 
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空也上人は、平安時代中期の僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)と称され、口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者とされている仏僧の一人。ひょっとすると名前よりもこの立像の方が有名かもしれない。その門弟は「高野聖」など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えたとされる。

空也の彫像は、六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男 康勝の作)が、最も有名である。他には、月輪寺(京都市右京区)所蔵、浄土寺(松山市)所蔵、荘厳寺(近江八幡市)所蔵が代表的である。いずれも鎌倉時代の作で、国指定の重要文化財である。
彫像の造形は、特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、わらじ履きで歩く姿を表す。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。この6体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。後世に作られた空也の彫像・絵画は、全てこのような造形・図像をとる。


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言霊とか、そういうことじゃなくてたぶん、現実的には、如何に呼吸をコントロールし、呼気を交えずに発語するか。身体の何処の部位に声を響かせ、自分で自分の声をどのように調律するか? 等々が問題なんだろうと思うけど、実践的な学習の場ではそういったロジックを学ぶよりも、イメージで捉えることのほうが近道な場合が多々ある。それが直観というようなことかも知れない。

『ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古』

邦題が決まりましたね。「ピーターブルックのタイトロープ(Peter Brook:The Tightrope)」。邦題は上記。予告映像を観るだに実に美しい。

観に行きます。こればっかりは、演劇をやっている人以外の人にもぜひ、お勧めしたい。演劇って、そんな、子どもっぽいものや泥臭いもんじゃないんですよ。本当に。人生における、人が生きるということについての哲学なのです。

  • 2014.08.11 (月) 09:54
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  • Yasuhito YANO

Les Miserables - The Confrontation - 25th Anniversary.

レ・ミゼラブル。家人が借りてきた25周年のコンサート映像を観ているのだが、ただただ圧巻。コンサートだから歌手として歴代のミュージカル俳優が順番に歌を歌うだけなのだけれど、切り取られたその一曲一曲だけを観ていても壮大なドラマを思わされてしまう。

というか、正面を切って各々が歌っているのにまさに(ナンバーのタイトルの通り、)「対決」している! ジャン・ヴァルジャン(アルフィー・ボー Alfie Boe)とジャベール警部(ノーム・ルイス Norm Lewis)。

素晴らしい、の一言。こういうことなんだよ。けっきょく。僕がshelfでやりたいことは。つまるところ、このコンサートDVDを観てて思ったことには、ミュージカルが嫌いでない理由は、(除く、日本語ミュージカル)大袈裟さ、芝居臭さとはかけ離れたところでリアリティを、いわゆるリアリズム的な手法でなく獲得する稀な方法の一つだからなのだな、という。

  • 2014.08.08 (金) 01:32
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  • Yasuhito YANO

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