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演劇「作品」はそれのみにて果たして存立可能なものだろうか?

昨夜、いや一昨日の夜か。疲れからかウツからか睡眠がとても浅くって、いろいろな考えが浮かんでは消え、また浮かんでは、あ、これ面白いかも...なんて思いながら、起きてノートを取るなんてことも出来ず、そんなときにはしばしばとても歯がゆい思いをする。

一つだけ覚えている。走りながら考えること。ものを書いたり作ったりする際には、完璧を目指さずに、とにかく動くべきであること。そのことの比喩に、生命の生命活動そのものがとてもしっくりくるんじゃないか? と思ったのだった。

完璧に健康な状態なんてない。人間なんて常にどこかしらに不具合を抱えているし(眼鏡をかけているのだってそうだし肥満とかうつ病とか腰痛とか肩こりとかだって不具合だ。)それにだいたい常に何かしら補給しながら、つまり何かを食べたり飲んだりしながら、そうして身体を作りながら生きている。

そう考えると、例えば稽古場に入る前とか、本番前に出来るようなそんな完璧な準備なんて、そもそも一切存在しないのでは? と思ったのだった。もちろんいつも、創作や公演の準備は細心の注意と精神を傾注して行うのだけれど、しかしそれだって当たり前のようにして万全では決してない。

作品を上演するということについて―とくに舞台芸術において、その際に「作品」という言葉を使ってしまうと、そういうもの(舞台)が自律的に、それのみで存在するかのような錯覚を与えてしまう。のだけれど、実は、そうじゃないんじゃないか? というようなことを最近ずっと、考えている。

少なくとも観客と俳優と(スタッフと)一緒にその場(劇場)と時間を共有して、何かしらを考えたり感じたりする、そういう体験すべてが僕の考える舞台芸術の本質で、観客のいないところに(少なくとも僕の)「作品」だけが存在することは決してない。

そう考えると、さっきの生命の喩えじゃないけど、演劇を行うということは連綿と続く生命の一つの結節点のようなものでしかない。

なんていうとどうしたって、甲殻機動隊「GHOST IN THE SHELL」に出てきた“人形使い”を思い出してしまうのだけれども。(苦笑)

 
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それを言うならあなたたちのDNAもまた自己保存のためのプログラムに過ぎない。生命とは情報の流れの中に生まれた結節点のようなものだ。種として生命は遺伝子という記憶システムを持ち、人はただ記憶によって個人足りうる。たとえ記憶が幻の同義語であったとしても人は記憶によって生きるものだ。コンピューターの普及が記憶の外部化を可能にしたときあなたたちはその意味をもっと真剣に考えるべきだった...


 
  

  • 2015.02.18 (水) 17:35
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日々の鍛錬のその先にあるものと、「場」をしつらえる、ということについて

名古屋は台風も過ぎ去って快晴です。ちょっと風が強いですが。

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おかげさまでshelf最新作[deprived]、たいへん好評です。ささやかな作品ですが、ある高校時代からの友人の言葉を借りると、「今まででいちばん自分が作品に参加している感があった。」とのこと。有り難い反応です。とても。

同友人はまた、「自分の生活とも緩やかに地続きな感じがした」というような言葉も残してくれて、それは本当にうれしい言葉でした。だいたい僕は始めからそういうものを目指していたんだし、演劇はもちろんエンターテインメントだけど、そうはいっても同時にもっと、何というか製品とか商品とかのように売り買い出来るようなそんな薄っぺらいものではぜんぜんなくて、口幅ったいことばかり書いているようだけど、ひととき、浮世の憂さを忘れてリフレッシュするための例えばディズニーランドやハリウッド映画のようなそんなファンタジーなんかでなくてね。

たぶん僕も、いい塩梅に上手く歳をとって来たのだとも思う。いろいろなことをあきらめて、というよりか手放して、委ねて。禅の境地かよっていうような、でも確かにそうなのです。昔に比べたらずいぶんいろいろと“待てる”ようになったし、いろいろ手放したら身が軽くなって楽になったし、そこに“余白”が生まれた。

そういうことが確かに、作品に影響を及ぼしているのは感じます。だいたい作品、という言葉が、今回は、なんだかどうもそぐわない。もっと緩やかな、ご来場頂いた皆様と僕らとで一緒に「場」を共有するのだという、そして重ねて来た稽古は作品制作というようなものでなく、そんな「場」をしつらえるための心身の準備であって。

そんな、まあ今どき流行らない、地味な、しかし毎回毎回一期一会の精神で自分に厳しく向かい合い、茶席をもうけるような、そんな作業に根気よく付き合ってくれている俳優たちにはひたすらに感謝です。もちろんまだまだぜんぜん終わっちゃいないんだけど、公演も、その先に僕(ら)が見ている、実現したいことについてもね。

道に終わりはないし、老いも病いも、貧乏も贅沢も、たぶん死さえも渾然一体とした、正解め不正解も、正義も何もない何か、なんだろうなあと。

とあともう一つ。僕らが日々、鍛錬を重ねて培って来たものがあったのだとして、俳優のそれは、いわんや演出家の僕の技もきっとたいへんな苦労と時間を必要とする技なんだけど、実現したら当たり前の、本当になんでもないことに見えるんだろうな、と、最近頓にそのことを考えます。いろいろと面白いです。

  • 2014.10.06 (月) 15:29
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文化芸術は国家の重要な「柱」だ 前文化庁長官・近藤誠一

前文化庁長官の近藤誠一さん。確か元々外務省幹部だったと思う。その経験が大きいのだろうか、この人の文化政策に関する言葉には、本来芸術の分野を専門とするアーティストやアーツマネジメントに携わる人たちとは少し違った、しかし強い説得力がある。私たちは(私たちも)日ごろからの実践の上に、斯様な力強い言葉を持たなければならないのだと思う。

以下、産経ニュース(2014.6.11)「正論」から引用。

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 ≪短絡的な「右傾化」批判≫

 最近、友人のアメリカ人に、日本は「右傾化」しているのかと聞かれた。私は次のように答えた。

 「確かに日本全体が、右方向にシフトしていると思う。ただその内容は多様で、全体像の把握が困難だ。そして社会があるべきバランスに戻ろうとしている好ましい要素がある。だから軽々に右傾化と決めつけるべきではない」

 具体例を挙げれば、日本の若者の間に伝統文化を再興しようという動きが高まりつつある。最近も神奈川県の藤沢にある私立大学の講義で、伝統工芸の継承者育成などを支援するいくつかの小さなNPO(民間非営利団体)の話をしたら、帰り際に2人の学生が教壇に来て、そのNPOの連絡先を教えてほしいと言った。

 また京都の教え子からは、能や和歌などの古典を題材にしたマンガがいま流行(はや)っていると聞いた。彼らが日本とは何か、日本人とは何者かを考え始めているとすればそれは心強い。

 日本は明治の富国強兵や、戦後の経済再建にもてる資源を優先投入し、世界が驚く成功を成し遂げた。しかしその裏で2つのことが起こった。

 ひとつは文化芸術一般がもつ力の軽視、もうひとつは欧米崇拝の裏返しとしての日本の伝統文化の軽視である。その結果素晴らしい文化財や芸術家などの文化資源があるのに、成熟した先進国のステータスともいえる文化度の向上につながらない。

 文化芸術には5つの力がある。

 第1は個人に与える力である。表現力を高め、他との共感・協働を可能にし、人生を豊かにする。

 第2は社会・経済に与える力である。文化芸術の発展は観光や創造産業を生み、経済効果をもたらす。ある調査によれば、生産誘発係数は、公共事業に比べてやや低い程度で、そこに数字にならないが、精神的なプラス効果が加わる。また障害などの理由で社会の中心になれない人びとの才能を発揮させ、社会に包摂していく。いじめや不登校を減らし、障害者などに生きがいを与える。

 第3は国のイメージ向上だ。漫画やアニメ、和食を日本文化への入りやすい入り口ととらえ、日本語を学び、伝統文化の魅力にとりつかれる外国人が増えている。

 ≪現実呑みこむ懐の深さ≫

 第4は社会全体に与える力だ。文化芸術が与える「ひらめき」の力はビジネスでのイノベーションを進め、社会デザイン力を高める。また過去の成功体験の中で出来上がった「常識」という名の固定観念からひとを自由にしてくれる。個人が組織防衛の軛(くびき)から解放され、壁を越えて、良心に従って行動することは日本がいま最も必要としている力だ。

 第5は、文化財などを通じて先人たちの知恵を学べることだ。

 近代化の下での経済優先、短期成果主義、効率重視の風潮の中で我々は、こうした価値を見逃してきた。長く伝わる精神性や生きる知恵を、政策的に、あるいは無意識のうちに軽視してきた。

 日本画などの文化財や伝統芸能は、日本人には独特な自然観や繊細な美意識、すべてを善か悪かで割り切らずに現実を呑(の)みこむ懐の深さ、目に見えない価値を認識する能力があることを教えてくれる。これらは21世紀の地球の文明を考える上で重要な心構えだ。

 また伝統芸能は人間関係の難しさを先達がどのように乗り越えてきたかを伝えてくれる。世の中には百%の善人も、百%の悪人もいない。義理と人情などの価値の相反にどう対処すべきかには正解がない。ネットで検索しても答えは得られない。文楽や能などはそのヒントを教えてくれる。

 そうした貴重なものを失いかけていることに警告を発したのが、フェノロサやラフカディオ・ハーンのような外国人である。最近都内の劇場で再上演された『日本の面影』は、明治20年代の科学主義、物質主義、欧州礼賛という社会の風潮と、それに対するハーンの嘆きを伝えてくれる。私の周りにもこうした外国人が多い。

 ≪狭量でなく開かれた自信に≫

 バブルの絶頂期に、芸術文化を生活に浸透させることによって国民に精神的充実感を与えるシステムづくりを怠ったまま、デフレ期に入ってしまった。日本人の幸福度が低いことはこれと無関係ではあるまい。文化芸術は暇とカネのあるひとの贅沢(ぜいたく)だとする風潮が広がってしまった。

 東日本大震災直後の「自粛ムード」はその表れだ。「被災者の方々が苦しんでいるときに、歌舞音曲などとんでもない」という発想が生まれ、広がったのは、文化芸術は国防や経済とともに国家運営の重要な柱であるとの認識がないからだ。そのころ企業が生産活動を続けるのはとんでもないと考えるひとがいただろうか。

 こうした現状への反省が国民の間に生まれ、NPOや学生などの行動につながっていくとすれば、日本人の底力を表すものとしてうれしい。それが狭量なナショナリズムでなく、世界に開かれた自信と誇りに発展することを願う。(こんどう せいいち)

  • 2014.06.16 (月) 11:40
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芸術の価値、みたいなこと。

テレビ的なメディアや資本主義的なコミュニケーションに慣れ親しんでると、モノゴトを体験するのに受け身になるのが当たり前になっちゃうんだよな。映画も演劇も対価を払って“与えられる”ものに堕してしまう。演劇は、演劇に限らず芸術一般はもっと能動的な、参加するものだと思う。

だから、分からない、という感想は、それを自分が持ったときはちょっと危険だなくらいに思っといた方が良い。勿論語るに堕ちるツマラナイ稚拙な作品も世には溢れてるけど、問題はそのレベルの話じゃない。ということをどのくらいの人に分かって貰えるだろう。

言ってしまえば、観客が払うチケット代というのは作品のクリエイションに掛かる経費なのであって、作家が汗して涙して恐ろしいほどの時間をかけて、というのと本来等価なものであって、作家と観客はその意味でお互いを補完しあう関係にあるのだと思うのだ。お互いにお互いが出せるものを持ち寄るのだ。

畢竟、芸術は観客のものでも作家のものでも、僕の考えるそれは、なくなる。もっと大きな、演劇なら演劇という芸術そのものに捧げられるというか、観客も作家もそれに対して無心に奉仕すべきなのだ。

だから自己表現は、いつまでもそのレベルにとどまっている表現や作品は、芸術ではない。そんなものは、浅田彰の言葉を借りれば、ただのセラピーに過ぎない。それはそれで社会に必要なものではあるけど、確かに必要なものではあるけど、少なくとも僕の求める芸術ではない。のだ。

一方でそれは、狭義のエンターテイメントではない、広義のエンターテイメントであるとも思う。学問することが、(知的好奇心を満たすことが、)最高のエンターテイメントであるというような意味で。

なんてことを、twitter上に書いていたらここで、冒頭の「資本主義的なコミュニケーション」てなんだ? 「云ってることは資本主義そのものじゃないか?」みたいな突っ込みがあったのだけど、なんというか、そうかも知れないけど、お客さんが支払った金額の分だけ、作家が観客を「楽しませなきゃいけない」という姿勢に疑問を持っていて、ですね。

何れにせよマーケットの論理にだけ依存するのは、芸術本来の在り方にはそぐわない気がします。っても昔のようなパトロネージュする/されるの関係の方にも、なかなか今の世の中、行き難い気もするし。そのへん難しいなあと思う。

だから芸術全般について、それを公共性あるものとして、社会から資本が投入されるべき(いわば、行政がパトロネージュすべき)という議論が成り立つのだと思うけど、

その文脈でいえば、教育や医療や社会福祉と並べて、芸術はしばしば例えられるけど、なんかちょっとそれも違うかな、という気が、最近していて、あくまでも個人的な感覚なんだけど、芸術は、純粋な科学(即時的な利益を求めない科学といえばいいのかな、)と同じで、本来的には社会にとってムダなものなんじゃないかしらん。

だけど、必要なムダというものが社会には必要で。公共性とかって理屈とはまた別の意味でね。

だから、公共性云々ということをことさらにアーティストが主張するのは、なんか違和感を感じる。ようになってきた、最近。(でも、助成金や補助金申請は、けっきょくなんだかんだ言っても自分もするんだけどね。)

  • 2013.03.16 (土) 09:49
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装置としての演劇、あるいは劇場体験ということについて (4)

で、けっきょく何が言いたいのかというと、「芸術の魅力は体験にこそある。」ということで、畢竟、演劇の場合はそれは「劇場体験」にこそある。

ということになるのだけど、こんなことは既にあちこちで言われていることで、ただの繰り返しにすぎない。

ただ、そういった体験を引き起こす装置として演劇作品や美術、インスタレーションなどを考えるとそこには少なくとも二つの機能があってそれが、

1.観客の<感覚>を鋭敏化させる 2.観客の思考を加速する

になるのではないか。逆にいえばこれらの機能が備わってさえいれば、演劇には実は「物語(起承転結などの分かりやすい筋道やテーマ、メッセージ。それを担う"主人公”などといった、古典的な物語の枠組)」は、必要ないのかもしれない。というようなことを、マレビトの会「パライゾノート」を観ていて考えたのだった。

で、このところずっとそういうことを考えていて、ふと、『ヌ・ドゥ・ネージュ/雪の結び目』 のことを思い出した。

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『ヌ・ドゥ・ネージュ/雪の結び目』は、フランソワ=ミッシェル・プザンティというフランス人の演出家による作品。

2003年、フランス人の俳優と青年団、ク・ナウカ、山の手事情社の日本人俳優が参加した、青年団国際演劇交流プロジェクト2003という一連の企画公演の演目の一つで、僕は同年6月に世田谷シアタートラムにて初見。音楽セクションを稲田光造さんが担当されていたのもとても刺激的だったのだが、思えばここで考えたことが、今のshelf のコンセプトのひとつの基点になっているといっていいかも知れない。俳優の身体について。(俳優の)身体に現象するドラマについて ...

googleで検索してみたら、風琴工房の詩森さんが、 コラム(2003.06.26の記事)で、非常に丁寧な解説を書いていらした。本題でないところかもしれないけど、感動したのが下の箇所。"抽象”ということについて、カンディンスキーの仕事を例示しながら書いてあるのだけど、

引用 | COLUMN
http://windyharp.org/windyharp/colum-other.html


しかし、この作品( 注:『ヌ・ドゥ・ネージュ/雪の結び目』 のこと )の高い抽象性が、抽象というものが持つ、本来的な、原初的な欲求に基づくものだということを観客は理解したほうがいい。すなわち抽象というのが、ある「モノ」の本質をよりダイレクトに掴もうとしたときに発現する、というシンプルな事実だ。世界ではじめて抽象画という概念を作ったのはカンディンスキだが、彼がある「対象」を描こうとして、それを解体していく作業は、まさにこの「抽象」のダイナミズムを「具象化」したものである。カンディンスキは「ワケのわからない」「なにが書いてあるのかよくわからない」絵画を書くことを目的として「抽象画」を書いたワケではない。より「対象」の本質に近い形象を求めた結果、線が省かれ、かたちが融解していっただけなのだ。この「過程」をともなわない「前衛」ひいては「芸術」ほど空しいものはない。それはただのスタイルに過ぎない。

それでは、『ヌ・ドゥ・ネージュ/雪の結び目』で、プザンティが掴もうとした"ある「モノ」の本質”は何だったのか?  詩森さんの言葉を借りれば、それはまさに「俳優自身の生の感情、リアルな身体」性そのものだ。そのことについては演出家も自身で言葉を尽くしている。

以下、引用 | ラ・フリッシュ・ジャーナル掲載
99年3月に行われたベルナール・アンドルー氏との対談からの抜粋
http://www.seinendan.org/jpn/oversea5/review0205.html


私の関心は、あなたがあなたの例外性について説明をするところにあります。あなたが舞台に現れるときの例外性とは何ですか? 私にとっては、まずそれはあなたの歴史です。あなたの歴史は、あなたの体の節々に描かれています。私はそれらの立てる音が、それらが挟まって動かなくなっている場所や、それらが広がっていく場所が、聞こえます。あなたの仕種とその発する音が、あなたの例外性なのです。で、あなたにとっては、あなたの仕種は、何を語っていますか? それは必ず、世界とのあなたの関係を語っています。

「生の感情」「リアルな身体」が、日常そのままの身体でないことは言うまでもない。詩森さんも指摘しているように、非常に高い抽象性を持ちつつギリギリな「生の感情とリアルな身体」をしかも反復的に繰り返すために、演出家と俳優たちは眩暈のするような周到な準備をしている。


 では、舞台上に現れるとき、世界とのあなたの関係とはどのようなものですか? あなたは必然的に不法に舞台上にいるわけですから、どのように自分の存在を合法化しますか? どのような “生まれさせたいという意欲” で、あなたの存在を合法化しますか? この俳優に対する概念は確かに破壊的なもので、 彼らは “感じた” ことや“人生のように” 演じることからかけ離れた想像作業を余儀なくされます。俳優はそれに耐えることができません、というのは、彼らは自分たち自身を「どうやって歩くのか?」と聞かれた百足のように感じるからです。

そのような不可能な試み ― 俳優に、歴史や記憶、俳優が稽古場で過ごして来た時間その他膨大な量の情報を、それも自覚的に背負せながら、同時に徹底的に現在性、現前性をも背負わせようとする ― を通して、演出家は、そこに何を見ようとしたのか。それは、誤解を恐れずにいえばそれはこの、言葉や身体と、身体の記憶とで幾重にも折り畳まれたこの「人間」の「存在」そのもの、だったのではあるまいか。


私は作品のなかで、過去の題材を操ると同時に、この操作を現時点で実行するように要求します。つまり、俳優は上演の間、ある狙いを持って、何か、とりわけ稽古で構成された題材を出現させようと企てるわけです。彼の芸術プランが “自然” に進むのを阻むのは、私の側の、現在 ・今ここで ・今夜、という事に対する強要です。ええ、私は仕事をするうえで常にこのことに固執していますし、この考えは今後も変わらないでしょう。上演作品は、今まさに作られている、というふうに観られなければいけません。このことが俳優にとって危険な実践で、新しい実践を行えば行うほど危険になる、ということに関して、私は疑いを持ちません。俳優がそこから身を守ろうとするこの危険こそが、彼独自の奏でる詩に応じて、彼を “存在” させるのです、時々は神々しいまでに。

  • 2008.04.10 (木) 22:42
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