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金継ぎ

金継ぎ。割れたり欠けたりした陶磁器を漆で接着し、継ぎ目に金や銀、白金などの粉を蒔いて飾る、日本独自の修理法。修理後の継ぎ目を「景色」と称し、破損前と異なる趣を楽しむ。現代では漆の代わりに合成接着剤を使うこともある。金繕い。

ファイル 1092-1.jpg

「nora(s)」の当日パンフレットにも書いたんだけど、例えばこの金継ぎされたモノの美しさ、というか、こういうモノを美しいと感じて、単に古いモノ大切にするというそれ以上の、何かしら別のモノとして改めて愛でるという行為、趣向、その感性って、いいなぁと思うのです。僕は。

  • 2013.11.12 (火) 21:26
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fringeブログ「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない」への異論(2)

「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない(2)」を読んで、

「アクセス」という言葉は、その公演への接しやすさという意味で使用した。内容を読めば、都市部の現代演劇公演を念頭に書かれていることがわかると思うのだが、揚げ足取りのような反論があるのは残念だ。距離的に遠い場所での公演は、その場所で上演すること自体に意味があるのだから、やったらいい。その代わり、観客が観劇旅行の準備が出来るよう、開催3か月前に詳細な日程を公表するなどの配慮が必要だ。能狂言は一日興行が本式で、薪能は由緒があってその日に上演するのだから、複数日に開催することが逆におかしい。平日の早い時間のほうが来やすい観客も当然いるだろう。そうした観客には平日マチネを設ければいいわけで、今回問題にしている平日ソワレとは関係ない。ぜひ同じ土俵で議論していただきたい。

という応答がありましたのでそれに即して、続きを書きます。話は少し荻野さんの「平日ソアレ」に絞られた議論からはいったん脇にズレるかもしれませんが、主に、先のエントリで脇に置いた、「公共性」を担保するべきはカンパニーか劇場(「場所」)か。という問題について書きたいと思います。

利賀の件については別途考慮されているだろうな、というのはある程度文脈から理解できましたが、念のため述べさせて頂きました。荻野さん、悪しからずご了承ください。

また荻野さんのおっしゃる都会でのライフスタイルに合わせた公共性、ここでいう「アクセス」は、おそらく(不勉強でwiki程度の知識しかないのですが、)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%85%B1

ここに書かれている、斉藤純一の述べている公共性の要素である

・official (公務員が行う活動が帯びるべき性質)
 国家や地方自治体が法や政策などに基づいておこなう活動。
 例:公共事業・公共投資・公的資金の投入・公教育・公安の維持。
 対比されるもの:私人の営利活動。

・common (参加者、構成員が共有する利害が帯びる性質)
 共通の利益(公共の福祉)の追求・共有財産(公共財)の維持管理・共有する規範(常識)の創出・共通の関心事(ニュース)などの伝播。
 例:公益・公共の秩序・公共心・世間(せけん)。
 対比されるもの:私有権・私利私欲・私心。

・open (公共的なものが担保しなくてはいけない性質)
 誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報。
 例:情報公開・公園等の公的空間。
 対比されるもの:秘密やプライヴァシー・私的空間。

この考え方は、山脇直司『公共哲学とは何か』(ちくま新書)での公共性の3つの意味(①一般の人々にかかわる② 公開の③政府や国の)とも共通する。

日本ではあまり議論されないunofficial(民間レベルの公共的なもの)という概念も存在し、町内会・自治会・NPO・慈善団体・ボランティアサークルなどがその例に当たるが、上記の分類に従えばほぼcommonに該当すると考えられる。

のうち3番目にある“open”「誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報。」に即して書かれているのかな、と感じました。

なので僕も、冒頭で少なくとも不特定多数に 「開かれている」 公演に対して、公共性が 「ない」 というのは(「低い」 というのであればともかく、)いささか乱暴なのではないか? と書いたのですが、

ちょっと話は飛躍しますが、僕は、「公共性」 については、先のエントリで、

> 「公共性」 を担保するべきはカンパニーか劇場(「場所」)か。という問題もありますが、それはちょっと脇に置きます。

と、論の途中で脇に置いた、「場所が担保するべき公共性」というものをもっと重視した方がいいのではないだろうか? というのが今のところの立場です。(荻野さんも部分的にそのことには言及しておられますが、)

つまり、現状の成り立ちからして日本の小劇場においては、個々のカンパニーだけの努力では 「公共性」 は担保しきれないのではないか、と考えます。(その意味で、劇場法にはその危険性も鑑みつつ、期待を寄せています。)

荻野さんは 「公共性はある」 という前提で物事を考え進めると思考停止に陥りやしないか、と問題視されていますが、僕もまったくその通りだと思います。

というのも芸術の公共性を論じるとき、に問題にすべきは、芸術は“準”公共財と呼ばれるべきもので、だからその分、本来程度問題として論じられるべき問題なんですね。

だから、演劇活動はすべて助成されて当然だというのは極論すぎて社会に、特に(芸術の外部経済性の問題はさておき、)芸術それ自体に価値を認めていない人には到底受け入れられないでしょうし、といって、演劇なんか、興業なのだから助成しなくて構わない、というのも暴論でしょう。

芸術には、直接の「存在価値」、すなわち便益を享受する者の「利用価値」以外にも、経済的な側面からだけ見ても、経済用語でいうところの様々な「非利用価値(オプション価値、威光価値、遺贈価値、教育的価値、等)があるという点からもそれは明らかです。その点は、荻野さんとも相互に了解が得られる点だと思います。

これはオリザさんもどこかで述べておられましたが、劇場法制定のメリットという点からのロジックですが、例えば劇場の稼働率の問題にしても、全国各地に創造拠点となる劇場や観賞事業専門の劇場が出来て、そこで出来た作品(コンテンツ)を他の公共劇場でも回していくことが出来るようになれば、一コンテンツ(一カンパニーの一作品)では数百人単位の集客しかできない公演であっても、コンテンツ数を増やしていくことによって、結果、公演回数を増やすことができ、稼働率は高まるし、平日夜公演も増えてくると思います。(平日夜公演の増加のためには、劇場の閉館時間を遅くする、等、カンパーだけでなく劇場側、地方自治法など法制度の改正の問題が絡んでくるのは言うまでもありませんが。※ここにも劇場法が絡んできます。)

僕のいちばんいいたいところはここなのですが、僕は、単純なロングラン公演の増加よりも、再演、しかも巡演することによる再演の機会向上の方が、端的に演劇の 「公共性」 向上の一助になるのではないか? と思うのですが、如何でしょうか。

一つのカンパニーで、特に中劇場以上の規模の劇場でロングラン公演を実現しようとすると、1,000人、2,000人以上動員するエンターテインメント性の高い公演をたくさん作る必要があります。しかしそういった作品の傾向はどうしても偏りがちになります。そういった公演が幾つかあるよりも、400名、800名程度の動員であってもユニークで実験的な公演がたくさんある方が、社会の多様性やアクセス権もキープされると思います。

病院の例えでいえば、ちょっと無理筋かもしれませんが、医者が一人しかいない病院で週に7日間診療は不可能ですが、同じ病院に複数人の医者がいれば当直制で7日間診療も可能です。し、内科医だけでなく外科医、小児科医と複数の医師が在していた方が、公共性も高い。もちろん、その分個々の医師の所得をどうやって少ない診療費から保証していくか、という公共性の問題が(芸術家の所得保証の問題と同じく!)あるのですが、

あと、これも大きな問題なのですが、開演時間の問題については、個人的には、shelfで東京で公演を打つ時は基本、先にも書いたとおり平日20:00開演を原則としているので、自分たちとして出来ることはやっているつもりなのですが、難しいのは、地方に行くとお客様が帰るための公共交通機関の終電時間や、もっと困ったことには繰り返しになりますが、劇場の閉館時間などによって、19:00開演や、19:30開演が限界の場合が多いのも事実です。ここにも改善の余地があると思います。

またちょっと違った意見では、都市部であっても、一般の社会人からであっても、あまり遅いと翌日に差し支えるから、という理由で早めの開演時間を(それが平日であっても!)求める意見すらときに耳にすることがあります。

荻野さんは特に地域での文化へのアクセス権について問題視されているようですが、僕もそれは勿論、不可欠だと思いますし、カンパニー側の自助努力はなされなければならないと僕も思います。

しかし、僕はどうしてもそれは演劇業界内だけで、いわんんや個々のカンパニーの自助努力だけでなんとか出来るものではないという気がしてなりません。興業の打ち方に工夫を加えるべきだけでなく、これは荻野さんの提言以上に難しい要求かもしれませんが、演劇人も、ただ社会の変革を手をこまねいて待っているだけでなく、自ら文化政策(政治)にもっともっと関わっていくべきかもしれません。

今、米屋尚子さんの 「演劇は仕事になるのか」(彩流社)を読みながら、いろいろ自分のやるべきことについて思考を巡らせています。本業は演出家なのですが、それだけやってちゃダメだなと。

それで本末転倒になるのも嫌なのですが、

オリザさんほどクレバーには出来なくとも、あるいは鈴木忠志ほど泥臭いことが出来なくとも、文化行政に一言を持って、手当たりしだい、演劇以外のことも含めていろいろな障壁にぶつかっていかなければならないのだな、と考えています。

  • 2011.12.30 (金) 06:40
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| 矢野靖人 url (12.31 06:44) 編集・削除

最後の三行について、Facebook内で、ここに大事なことが集約されていますね、というコメントを頂きました。有難うございます。

これは本来、芸術家に限らず市民一人ひとりが考えなければならないことだと思います。でもそれが難しいから、自分の意見を代弁してくれる代議士(政治家)を選ぶ。だけどその、民主主義が今、臨界を迎えているような気がします。

きっとみんな、変革を求めている。それは間違いないと思う。そうじゃなければ救いがない。

といって、橋元市長や石原都知事のようなファッショ的な独裁者に過剰な期待を寄せるのもどうかと思う。

ギリシア、イタリアやヨーロッパアメリカで起きている事象は対岸の火事ではない。むしろ、少子高齢化社会で国家の生産性がますますなくなっていくという意味では、日本は世界でもその最先端を走っている。みんな、日本の行政がどう舵を切っていくのか、世界が注目している。

僕は芸術家なので、行政といっても特に文化行政について勉強をしなければ、そしてそのためにも、と、遅ればせながら経済・経営(アーツ・マネジメント)についても学び始めているのですが、

政治を祭りごとを言いますが、日本の芸能・芸術も本来、祀りから始まっています。僕ら芸術家も、純粋に芸術的な価値だけを信じてそれの創作に邁進するだけでなく、もっと引いた目で、同時に、芸術が社会の中でどのように在り得べきか。せめて文化行政について、日本の将来像の在り方について、ビジョンを持って活動しなければ、と思います。

本文中にも述べましたが、今、米屋さんの「演劇は仕事になるのか?」(彩流社)を読んでいます。いろいろと考えさせられることが多いです。単に、欧米の文化行政に倣って変えて行こうというのではなく、あくまで日本の土壌にあった文化行政を考えて行こうという姿勢が、日本の芸事の在り方(習い事を通して「わたくし」的に自己を研鑽することが芸だという考え方、)の歴史から解きほぐされていて、非常に刺激的です。お時間ありましたら是非、ご一読ください。

fringeブログ「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない」への異論(1)

fringeブログ「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない」を読んで、少なからず違和感を感じたのでクローズドのSNS内で(主に)荻野さん向けに自分の記事を書いたのですが、この記事が同時に自分の「公共性」というものに対する意識表明にもなっていると感じたので、外のブログにも公開することにしました。

注)荻野さんが既にこのブログエントリに続けて次のエントリを書かれていて、(「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない(2)」 )僕の違和については、そこで応答されている部分が多々あり、違和感もだいぶ緩和されてきたのですが、このエントリは(2)が書かれる前に書いたもので、前後する問題意識が書かれています。つまり時間軸が前後しているのですが、それを踏まえて読んで頂けると有り難いです。

+++

先ずもって、「公共(public)」とは「私(plivate)」や「個(individual)」に対置された概念ですから、少なからず不特定多数の一般の観客(すなわち「社会」)に大して開かれて(いるハズの)公演に、その公演日数が短すぎたり開演時間が早すぎるからといって、「公共性がない」と断じるのは暴論だと思います。公共性が高い、低いという議論であればともかく。

ですが、ここではより細かく、今回、僕が感じた荻野さんのブログエントリに対する違和感について少し丁寧に解きほぐしてみたいと思います。

「演劇の公共性を考えたとき、その作品に容易にアクセス出来るかは重要な観点だと思う。」

先ず僕はここに、この論について、ちょっと違和を感じます。ここだけを取り出して批判するのはブログ全体の荻野さんの主張から的外れになるかもしれませんが、しかし荻野さんの主張に反して、この論は、大都市生活者の利便性重視の生活スタイルに寄り添い過ぎているのでは? つまり、東京の生活スタイルに荻野さん自身、影響を受け過ぎているのでは? と思います。アクセスできないものは公共性がない、というのであれば納得もいくのですが、“容易に”アクセスできない、ものについてまで公共性がない、と断ずるのは、どうかと思います。

東京や関西のような演劇公演の盛んな地域以外に住んでいる人はもちろん、それ以外の地域に住んでいる人でも、本当にそれを必要としている人は、優れた舞台芸術は、人は仕事を休んでも観に行きます。

それを自分の人生に必要としている人であれば。

ツイッターでも書きましたが、話はズレますが、いずれにしても、先ず「公共性」という言葉を一義的に公費を投入することを是とするための盾に使うのはよろしくないのではないかと思います。

その意味で、僕はオリザさんの、芸術も「これからは国際競争力だ」という理にも違和感を感じているのですが、これはまた別の機会に論じます。

(ただ、日本の多くの演劇人が、公費で海外に行って、そこで勉強はしてくるけれども、結果としてそのまま海外を自分の活躍の場にしていかない、そこで稼ごうという気概がないのでは? という問題意識は、これは別の人の論ですが、理解はできます。それでもどこか、オリザさんの論、乱暴に言えば、「公費を投じて支援すべき芸術は国際競争力のあるものだけだ」という論は、市場の論理(資本主義)に影響を受けすぎている気がします。 )

話を元に戻しますが、“現代芸術”じゃなくなってしまいますけれど、奥三河の花祭りとか、その他のいろいろな地方に今も残されている伝統的なお神楽とか、公費が投入されていなくても公共性の高い舞台芸術はたくさんあります。花祭りなんて、わざわざ都会に出て働いていた若者たちが地元に戻って参加していますし。まあ、これは芸術というよりか芸能というべきかもですけれど。

あと能・狂言とか数か月に数度しかしない公演もありますし、利賀村の様な場所であったり、あの場所は本当にアクセスが悪いですから荻野さんの理論だと公共性が「ない」ことになってしまいます。でも世界中から名だたる演劇人が集まって、世界でも稀有な、文化を醸成する「場所」になっていると思います。

ここで一つ重要な問題意識として、「公共性」を担保するべきはカンパニーか劇場(「場所」)か。という問題があるのですが、それはちょっと脇に置きます。可能であれば後述させていただきます。

いずれにしても「公共性の有無」と「アクセスの利便性」は別にして考えるべきだと思います。

論理をちょっと端折って書きますが、荻野さんの論理を推し進めると、全国どこでも一律に上質な公演が平易に観られるべき、となってしまいやしませんか?

それこそ、悪しきグローバリズムとはいいませんが、全国どこに行ってもあるユニクロやスターバックスのような、(ユニクロやスターバックスに悪意があるわけではありません。あくまで一例です、むしろユニクロやスターバックスは個人的に愛好していますw 悪しからずご了承ください。)

あるいは、どこの地方都市に行っても同じ景観しか見られない都市郊外の幹線道路沿線のような、全国一律の多様性なき文化が生まれてしまう気がします。

もちろん、荻野さんが本当に危惧されているのは、演劇の公共性、というよりか、もっと具体的に、市民が文化を享受するための豊かさそのものにアクセス出来ること、それ“すら”できない人が大勢いるという日本社会の「環境」のほうでしょう。日本には本当に、余暇の過ごし方はパチンコとカラオケ、というようなさびしい地方が沢山あります。東京だって、飲み会や合コンが余暇のすべてという人、よくてディズニーランドや映画館にデートに行くという人が少しいるくらい? もちろんそれらを一概に否定することはできませんが、そこに文化を享受する際の可能性、多様性の確保ができているか否かという社会問題はあると思います。

という、つまり問題は演劇のアクセスの利便性ではなく、市民が否応なく置かれている状況/意識の方にこそ問題がある、ということだと思うのですが、如何でしょうか。

そしてこの問題は、「短すぎる公演日程や早すぎる開演時間の演劇は公共性がない」という論理では打開できないと思うのです。

あと、平日夜公演の開演時間等については、twitterに劇作家の夏井さんも書かれていましたけど、サービス残業があって当たり前、有給も自由に使えないというこの日本の就業状況のほうにこそ問題がある気がします。ちょっと問題が大きくなってしまいますが。

僕は、この「公共性」を考えるとき、余暇の使い方に豊かさがない。という以前に余暇を楽しめる余裕がない日本の社会に問題がある気がします。これは演劇業界、演劇団体が個別に頑張ってもどうしようもない問題で、もっと政治的な働きかけが、すなわち日本の「文化政策」の抜本的改善が必要だと考えます。これからの後期資本主義社会、そして少子高齢化を迎えて行き、創造性がますます発揮され難くなる日本の社会がどうあるべきか、どうしていくべきかというビジョンが市民一人一人に問われている気がします。

経済的な問題としては、具体的な解決策としては、ワークシェアリングとか、育児休暇やその他福利厚生の強化とか、今ちょっとその程度しか思いつかないですけど、社会を変えて行くことの方が先で、ずっと重要だと思います。

とはいえ、手をこまねいて社会の変革を待っているワケにもいかないので、僕たちshelfは僕たちで出来ることを考えています。

今のところ、僕は東京での公演日数を増やすことよりも、(もちろん、週末を挟んだ一週間以上の公演の実施は小さなアトリエ公演に限ってですが、しばしば試みていますし、状況が許す気限り平日20:00開演も実施しています。が、)観劇機会すらないような出来るだけたくさんの「地方」(という言葉を敢えて使いますが、)での上演、作品の再演の機会を増やすことで、作品そのものとは別個の「公共性」を担保して行くことはできないか、と考えています。

その割にはまだ都市圏しかまわれていないので、まだまだ努力が必要なのですが。

  • 2011.12.30 (金) 05:51
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shelf 2008 ダイジェスト映像

前々からアップロードを試みていたダイジェスト映像、ようやく無事にyoutubeにアップロードできました。七ツ寺共同スタジオ35周年記念企画で制作した「悲劇、断章―Fragment / Greek Tragedy(トロイアの女)」、及び2008年に利賀村で最優秀演劇人賞を頂いた、「Little Eyolf―ちいさなエイヨルフ」の名古屋凱旋公演の2作品、合計10分ほどの映像です。

最近の作品とはまた雰囲気が少し異なりますが、shelf をご覧なったことがない方にぜひ。

  • 2010.11.23 (火) 12:09
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| マメルリ url (11.23 22:39) 編集・削除

初めてみました^^
劇場の雰囲気が感じられました。良かったです。
演劇の事は語ることが出来る程知っているわけではないですが、
なんとなく、トロイアの女の方が好きです。こちらの方が長かったのかな??
ちいさなエイヨルフは普段の我が家の夫婦の会話のようで、親近感がありました。あぁ毎日あんな感じでわぁわぁやってるよなぁ~って。

| yasuhito url (11.24 08:35) 編集・削除

> マルメリさん

コメント有難うございます! そうですね。「トロイアの女」のほうが、劇場に入ってから時間をかけて作ることが出来たので、美術(これ、劇場をすべて真っ白に塗ったんですよ。実は後半の「エイヨルフ」と同じ劇場なんです。)や、後衣装も、劇場入りしてから最終的な詰めの作業が出来たので、ビジュアル的にはずっと見やすいかもしれません。

劇作品(ドラマ)としては、「エイヨルフ」のほうが評価は高かったのですが、映像ではちょっとそこまではわかりませんね。

機会があったらいつか実際に劇場に足を運んでください。久しぶりにお会いしたいです。今後ともよろしくお願いします!

「型と象徴―山の手事情社の身体」

学習院女子大の尼ヶ崎先生の論文。shelfの方法を考えるにたいへん大きな示唆を貰ったもの。

「型と象徴―山の手事情社の身体」
http://homepage3.nifty.com/amagasaki/e_file/e017.htm

  今日メガヒットしている映画はたいがい最先端のCGとSFXを駆使したものだ。それらは荒唐無稽な魔法の世界や未来の宇宙をリアルに映像化することに成功し、おかげで観客は虚構世界の物語に没入することができる。これらの映画の興行的成功は当然である。「物語」は昔から人々の求める娯楽であったし、物語を楽しむためにはその物語世界に没入できることが条件だった。しかも没入した世界が日常と遠く離れているほど、物語体験のカタルシスは大きい。だからこそ観客は金を払って物語を買うとき、日常の世界を忘れて完全に虚構の世界に没入できることを求めてきたし、いっぽう物語を売る側も没入を誘うためにできるだけ認知情報をリアルな形で提供しようとしてきたのだ。まもなくテクノロジーは立体映像や体感の変化、さらに触覚や嗅覚の情報まで提供するようになるだろう。観客が虚構世界への没入を求める限り、それは直接脳内の認知系神経を制御するところまで進むかもしれない。

 たしかに情報はできるだけリアルであるほうが異世界への没入は容易に起こるだろう。しかし観客自身に没入への用意ができているとき、ほんとうにそこまでする必要はあるのだろうか。

 子供が親に「お話」をねだるのは、アマチュアのさして技巧的でもない言葉だけで十分に物語を楽しめることを示しているし、絵本の読み聞かせで興奮したり感動したりするのを見れば、子供はシンプルな挿絵と粗筋だけで物語に没入することができることを示している。いや大人だってマンガで興奮しているではないか。

(中略)

 そもそも歴史を振り返れば、物語ははじめ言葉だけで提供されていた。口承の「お話」は日本ではやがて源氏物語などの小説と平曲などの語り芸という形で洗練されていったが、それらに付加された工夫といえばせいぜい絵巻や絵解きという形で挿絵を加えることと、伴奏楽器を付けて音楽化するくらいのことであった。人間の身体が劇的な物語没入を誘う手段として登場するのは事実上中世の能からだといってもよい。

(中略)

 しかし中世ではまだ複雑で劇的な物語を提供していたのは語り芸のほうであり、その一つである浄瑠璃が人形という身体を取り込むのはようやく近世初頭である。

  ここで問題は、物語の没入には言葉だけで十分であるとしたら、身体はいったい何をすればよいのかということだ。たとえば能の筋書きだけなら、地謡や間狂言がドラマを語って聞かせれば済むけれども、それではシテの身体はいったい何のためにあるのか。…

基本的には劇団山の手事情社の傑作 『道成寺』 を論じた論文なのだけれども、いつ読み直しても本当に面白く、自分の立ち位置を考えるのにとても参考になる。尼ヶ崎先生の他の舞踊批評などと合わせて、ご興味を持たれた方は是非ご一読ください。

箪笥飛翔<舞踊評論>
http://homepage3.nifty.com/amagasaki/

  • 2010.01.23 (土) 02:31
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