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芸術の価値、みたいなこと。

テレビ的なメディアや資本主義的なコミュニケーションに慣れ親しんでると、モノゴトを体験するのに受け身になるのが当たり前になっちゃうんだよな。映画も演劇も対価を払って“与えられる”ものに堕してしまう。演劇は、演劇に限らず芸術一般はもっと能動的な、参加するものだと思う。

だから、分からない、という感想は、それを自分が持ったときはちょっと危険だなくらいに思っといた方が良い。勿論語るに堕ちるツマラナイ稚拙な作品も世には溢れてるけど、問題はそのレベルの話じゃない。ということをどのくらいの人に分かって貰えるだろう。

言ってしまえば、観客が払うチケット代というのは作品のクリエイションに掛かる経費なのであって、作家が汗して涙して恐ろしいほどの時間をかけて、というのと本来等価なものであって、作家と観客はその意味でお互いを補完しあう関係にあるのだと思うのだ。お互いにお互いが出せるものを持ち寄るのだ。

畢竟、芸術は観客のものでも作家のものでも、僕の考えるそれは、なくなる。もっと大きな、演劇なら演劇という芸術そのものに捧げられるというか、観客も作家もそれに対して無心に奉仕すべきなのだ。

だから自己表現は、いつまでもそのレベルにとどまっている表現や作品は、芸術ではない。そんなものは、浅田彰の言葉を借りれば、ただのセラピーに過ぎない。それはそれで社会に必要なものではあるけど、確かに必要なものではあるけど、少なくとも僕の求める芸術ではない。のだ。

一方でそれは、狭義のエンターテイメントではない、広義のエンターテイメントであるとも思う。学問することが、(知的好奇心を満たすことが、)最高のエンターテイメントであるというような意味で。

なんてことを、twitter上に書いていたらここで、冒頭の「資本主義的なコミュニケーション」てなんだ? 「云ってることは資本主義そのものじゃないか?」みたいな突っ込みがあったのだけど、なんというか、そうかも知れないけど、お客さんが支払った金額の分だけ、作家が観客を「楽しませなきゃいけない」という姿勢に疑問を持っていて、ですね。

何れにせよマーケットの論理にだけ依存するのは、芸術本来の在り方にはそぐわない気がします。っても昔のようなパトロネージュする/されるの関係の方にも、なかなか今の世の中、行き難い気もするし。そのへん難しいなあと思う。

だから芸術全般について、それを公共性あるものとして、社会から資本が投入されるべき(いわば、行政がパトロネージュすべき)という議論が成り立つのだと思うけど、

その文脈でいえば、教育や医療や社会福祉と並べて、芸術はしばしば例えられるけど、なんかちょっとそれも違うかな、という気が、最近していて、あくまでも個人的な感覚なんだけど、芸術は、純粋な科学(即時的な利益を求めない科学といえばいいのかな、)と同じで、本来的には社会にとってムダなものなんじゃないかしらん。

だけど、必要なムダというものが社会には必要で。公共性とかって理屈とはまた別の意味でね。

だから、公共性云々ということをことさらにアーティストが主張するのは、なんか違和感を感じる。ようになってきた、最近。(でも、助成金や補助金申請は、けっきょくなんだかんだ言っても自分もするんだけどね。)

  • 2013.03.16 (土) 09:49
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  • 装置としての演劇、あるいは
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  • Yasuhito YANO

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