記事一覧

「班女」について

ファイル 940-1.jpg

「班女」について

 私は「班女」というお能が好きなあまりに、同題名のちいさな詩劇に翻案したこともある。つまり恋人をいつまでも待っている。というようなことは、詩的ではあるが、あんまり演劇的ではない。恋人があらわれて、再び結ばれれば、そこで急にお芝居は終わりになってしまうが、恋人が現れるまでは、劇の漸層的な高まりはないわけで、堂々めぐりの内心独白に終始するほかはない。私はそこにまさに翻案の欲望をそそられたのだが、そのとき思ったことは、ホフマンスタールの詩劇のようなこういう指摘セリフによる独白劇を、いかに能は、豊かな表現を以て成功させているか、ということであった。
 能はシテが孤独なままで、その感情の振幅だけで、劇を作り上げてしまうのである。心理解剖もせず、分析もせずに、捨てられた女の嗟嘆が、そのまま劇的クライマックスまで、持って行かれてしまうのである。高橋義孝氏が、能を「無意識、潜在意識の演劇」と定義しているのは、この「班女」や「東北」や「定家」には、いかにも適切にあてはまる。突飛な発想だが、同じような色情狂(失礼)のヒロインとしては、「欲望という名の電車」のブランシュが居る。アメリカの色きちがいと日本中世の色きちがいの、何たる品格の相違よ。(これは冗談だが)
 しかし近代劇の狂女は、その狂気が分析されて、観客の知的理解に愬えるためのあらゆる工夫が施され、狂女と他の登場人物は、その意味では、同じ次元の上で対立を余儀なくされるのであるが、「班女」のヒロインは、他の登場人物たちの住んでいる世間から、狂気によって高く飛翔した。あるいは深く沈潜した、一種の神なのであった。

三島由紀夫

(ランティエ叢書7「三島由紀夫 芝居の媚薬」より引用)

  • 2012.10.26 (金) 04:34
  • Permalink
  • archive::三島ル。
  • Comments(0)
  • TrackBack(0)
  • Yasuhito YANO

トラックバック一覧

コメント一覧