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リアルについて考えている

ネットで購入した東浩紀+桜坂洋の 『キャラクターズ』 を読了。

こんなこと今更考えてもどうしようもないくらいくり返し問われ続けて来た問いなのかもしれないけれど、「リアル」と言うことについてずっと考えている。

今日の稽古場でも話したのだけれど、「リアルとは何か?」という問いと「何がリアルか?」という問いは似ているようで全然異なる。「リアル」だと感じた、その「リアル」が共有出来ているかそうでないか、は、こと演劇においては集団の強度に大きく関わってくると思う。

過去に書かれた戯曲を演じるということは、否、すべての戯曲は原理的にそれが作家による新作戯曲であろうと、その都度その俳優に当て書きされたものであろうと、あるいはエチュードや即興などで芝居を組み立てるのでない限り、いやその場合でも編集という過程を経る以上、すべて“他者”によって書かれた言葉を自分のものとして発語するという行為であるはずだ。

そこに「リアル」を感じるということはどういうことか。

現実に在り得そうだ、それっぽい、という、いわゆるナチュラルな演技がある。しかし、明らかに現実の人間の日常生活ではあり得ない様態でありながら、「リアル」であると感じる演技もある。確かにある。

ところでここに、大正時代に書かれた一編の戯曲がある。これを「リアル」に上演しようとしたらどういう方法があるのか。一つには、風俗、言葉の言い回し、衣装などもすべて大正時代に倣って出来る限り大正時代のそれを再現する方法がある。出来る限り存在し得たかも知れない人格に寄り添った俳優を選んで、それっぽく見せるという方法だ。

しかしそれは、果たして現代にアクチュアルな演劇たり得るだろうか。

もちろんそういう方法(=時代に寄り添う方法)もあるかもしれない。50年以上の時間を隔てながら、小津の映画を観るときに僕らが感じるリアリティ=そこに生きる人間の普遍性というものがある。演劇にもそれに肉薄するような「リアル」をそこに生みだすことは可能かもしれない。

しかし演劇は、先にも述べたようにそれが他者によって書かれた言葉=その時点で過去の言葉を発するものである以上、必然的にそれはまがいものだ。映画はしかし、(映画については門外漢なので見当違いなことを述べているかもしれないけれど、)撮影された時点で過去のものであり、その時点での「リアル」を保存する。映画はフィクションとしての構成を超えた時代の空気、いや、時代そのものとでもよべるような「何か」=「リアル」な何かをフィルムに焼き付け、保存する。

しかし演劇にそれは不可能だ。目の前に再現、若しくは生成されている1シーンは明らかに今・ここで生成されている。しかし言葉は過去に書かれたものであるという矛盾。

にもかかわらず、しかし演劇においても僕らはそれを「リアル」だと感じるときがある。「リアル」だと感じる何かが存在する(ときがある)。

つまり、僕がここで考えたいのは、時代に寄り添うのではない方法でテキストのリアリティ=普遍性を現前させる方法はないのだろうか。ということなのだけれども、

論理の飛躍を顧みずに述べればこれは説得力のある様式を生み出せるかどうか、という問題なのだと思う。

そこに論理を介在させるかどうか。はまた別の問題として。

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