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「型と象徴―山の手事情社の身体」

学習院女子大の尼ヶ崎先生の論文。shelfの方法を考えるにたいへん大きな示唆を貰ったもの。

「型と象徴―山の手事情社の身体」
http://homepage3.nifty.com/amagasaki/e_file/e017.htm

  今日メガヒットしている映画はたいがい最先端のCGとSFXを駆使したものだ。それらは荒唐無稽な魔法の世界や未来の宇宙をリアルに映像化することに成功し、おかげで観客は虚構世界の物語に没入することができる。これらの映画の興行的成功は当然である。「物語」は昔から人々の求める娯楽であったし、物語を楽しむためにはその物語世界に没入できることが条件だった。しかも没入した世界が日常と遠く離れているほど、物語体験のカタルシスは大きい。だからこそ観客は金を払って物語を買うとき、日常の世界を忘れて完全に虚構の世界に没入できることを求めてきたし、いっぽう物語を売る側も没入を誘うためにできるだけ認知情報をリアルな形で提供しようとしてきたのだ。まもなくテクノロジーは立体映像や体感の変化、さらに触覚や嗅覚の情報まで提供するようになるだろう。観客が虚構世界への没入を求める限り、それは直接脳内の認知系神経を制御するところまで進むかもしれない。

 たしかに情報はできるだけリアルであるほうが異世界への没入は容易に起こるだろう。しかし観客自身に没入への用意ができているとき、ほんとうにそこまでする必要はあるのだろうか。

 子供が親に「お話」をねだるのは、アマチュアのさして技巧的でもない言葉だけで十分に物語を楽しめることを示しているし、絵本の読み聞かせで興奮したり感動したりするのを見れば、子供はシンプルな挿絵と粗筋だけで物語に没入することができることを示している。いや大人だってマンガで興奮しているではないか。

(中略)

 そもそも歴史を振り返れば、物語ははじめ言葉だけで提供されていた。口承の「お話」は日本ではやがて源氏物語などの小説と平曲などの語り芸という形で洗練されていったが、それらに付加された工夫といえばせいぜい絵巻や絵解きという形で挿絵を加えることと、伴奏楽器を付けて音楽化するくらいのことであった。人間の身体が劇的な物語没入を誘う手段として登場するのは事実上中世の能からだといってもよい。

(中略)

 しかし中世ではまだ複雑で劇的な物語を提供していたのは語り芸のほうであり、その一つである浄瑠璃が人形という身体を取り込むのはようやく近世初頭である。

  ここで問題は、物語の没入には言葉だけで十分であるとしたら、身体はいったい何をすればよいのかということだ。たとえば能の筋書きだけなら、地謡や間狂言がドラマを語って聞かせれば済むけれども、それではシテの身体はいったい何のためにあるのか。…

基本的には劇団山の手事情社の傑作 『道成寺』 を論じた論文なのだけれども、いつ読み直しても本当に面白く、自分の立ち位置を考えるのにとても参考になる。尼ヶ崎先生の他の舞踊批評などと合わせて、ご興味を持たれた方は是非ご一読ください。

箪笥飛翔<舞踊評論>
http://homepage3.nifty.com/amagasaki/

  • 2010.01.23 (土) 02:31
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  • Yasuhito YANO

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