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発語という行為

チェーホフにしろシェイクスピアにしろ、岸田國士や三島由紀夫、サラ・ケインやベケットにしたって、そのテキスをを発語する際にいちばん肝要なのは、美しい日本語とか、語の意味がちゃんと伝わるとかでなく(それは大前提だ。)ただ、その発語を的確に“発語行為”とすることが出来るかどうかだ。

そこのところについては相当、shelfでは都度、現場で徹底している。徹底して俳優に要求するし、己れには徹底して言語化出来るようそれを課している、ただ、それは別段、うちに限った、限定的な方法とか理念とかではなく、すごく普通の、ど真ん中のそもそもの演技ということの本質だと思っている。

それはたぶん、いわゆるスタニスラフスキー由来のリアリズム演劇にも通じるし、と同時に能狂言や歌舞伎、文楽などの、例えば日本の古典芸能にも通底しているし、おおげさにいえば、近代以降の人間理解だけでなく、近代を超克すべき道筋の一つでもあり得るのではないか、とも考えている。

台詞を発語する、それを如何に“(発語)行為”として成立させるか。については、しかし以外に要件はシンプルで、ただ、一人で演らないこと、そのことに尽きる。如何に相手役や観客や空間、あるいは自分自身の身体や心を“使って”演技を組み立てるか。

常に環境と自己との間の回路を“開き”続け、つまり“感覚”を“開き”続けて、如何に即興的に受け取ったことを即座に自分の演技にフィードバックし続けるか。

なんていうと頗る複雑で難しい作業を俳優に課しているように思われるかもしれないが実は演技する、ということについてだけいえばかえってその方が、“楽”になるのだ。楽になるというのはつまり、如何に台詞を美しく喋るかとか、どう演ずるかなどといった邪魔な自意識に煩わされずに済むということだ。

俳優あるいは演出のための方法についてのメモ 201504

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