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ロボットと演劇

日付は前後するが先週は日曜日(12/23)、東京藝術大学にて、アンドロイド演劇を体験。シンポジウム“芸術と科学”―心はどこにあるのか―(青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト)というプログラムで上野の森へ。ロボット演劇は昨年の第20回BeSeTo演劇祭で『三人姉妹』を観ていたのだけど、アンドロイドの方はこれが初めて。
 
 
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...いろいろと分かった。こんなものか。や、しかし一つだけどうしても理解出来ないのは、何故、アンドロイドの声を出すスピーカーを内蔵にしなかったのかということ。技術的な問題? とにかくそのせいで、フィクションがヘンなお約束ごとに堕してしまっていたように感じられ、それが残念でならない。

声(言葉)がどこから来るのか? ということと、人間の身体のしぐさ、つまり身体(の所作の醸し出すノイズ)との関係が非常に複雑なのは、それこそオリザさんが作って来た静かな演劇の本領だし、だから明らかにスピーカーがアンドロイドから離れたところにあって、(口先だけだけど、)口をそれっぽく(しかしもちろんかなり緻密に、ではある。)動かしているアンドロイドのそれが、結果口パクとして(ズレて)聞こえてしまう、ということはかなり致命的なことなのではないか。

人間とロボット(ここでいうロボットとは、アンドロイドとかバイオロイドとか、A.I.とか、厳密にはいろいろあるけど、取り敢えず人工的な、人(のかたちや心)を模した存在物全般を指すものとする。)との境界を描き、その境界を揺さぶる試み、と同時にそも、人間とは何か? を問うフィクションについて、と考えたら、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』に出て来るあのカリスマ的な人工知能HALに始まって、日本だと士郎正宗の、押井守の『攻殻機動隊』シリーズの電脳や擬体という問題系、順番を気にせず書き出すと他にもリドリー・スコットの(フィリップ・K・ディックの)『ブレードランナー(アンドロイドは電気羊の夢を見るか)』や、カレル・チャペックの『R.U.R.(ロボット)』のロボットには実は生殖能力がなかったこととか、遡れば、リラダンの『未来のイヴ』、フランケンシュタイン博士の造ったあのクリーチャー、ぜんぜん文脈が違うけど、清水玲子のジャック&エレナシリーズ(漫画)に出てくるヒューマノイド(「食べる」ことを神聖視するフォトリス人のルビィと「食べる」行為にトラウマを抱えるジャックの葛藤を描いた「20XX」(1993年)なんかはロボットを扱った漫画の中では隠れた傑作だと思う。)とか、少女マンガでは樹なつみの『オズ』のサイバノイド19(ナインティーン)とか、まあ、そんな感じで数え切れないほどの先例があるのであって、それらのほうが僕にはずっと今も魂を揺さぶられる仕事なのだ。だから、そういう先例と比べると、その、人間とロボットとの境界線云々についてだけ考えたらこのアンドロイド演劇『さよなら』は、どうしてもプロットもストーリーもギミックもすべて、残念ながら少しばかり稚拙に思えてしまう。

まあ、そういうことがこのプロジェクトの眼目ではないのかも知れなくて、僕が今こうして書いたようなことはまったく筋違いなクレームなのかも、だけれど。




2001: A SPACE ODYSSEY




BLADE RUNNER 30th Anniversary edition


攻殻機動隊ARISE border:4


あと、ぜんぜん別な問題として、詩の朗読というのはしかし、ほんとうに難しいですね。耳をそばだてて頑張って聞いてても、ぜんぜん詩の言葉が聞こえてこなくて、ちょっと困りました。

ただ、今日のシンポジウム登壇者で美女解剖学者の布施英利さん(東京藝術大学美術学部准教授)の、死体はモノか人間か。人間はモノではないのか? という文脈でのお話、死体は死体でしかない。人間でもモノでもなく死体だという、だからロボットはロボットという領域を極める方向に進めば良いのでは? という話は示唆的でした。
 
 
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初めて入った東京藝大の音楽学部のキャンパス。秋、深し。

  • 2014.12.01 (月) 15:25
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  • Yasuhito YANO

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