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言葉を身体化するために

稽古場でときどき、台詞をただ普通に吐く息として喋るのではなく、言葉を一語一語(自分の目の前の/あるいは自分の頭上とか、劇場内はどこかしらの)空間にまるで物質か何かのようにしっかりと置いていくように。と俳優に命ずることがあるのだけど、それにはたぶん僕の中に、先に引用したミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』の最初の短篇、ホルの一人語りで、ホルが自分の住んでいる不可思議な迷宮内で、過去に不用意に発した自分の「声」に再び遭遇して驚く(からこれ以上大きな声で喋れない。)という下りがってその強烈なイメージが僕の身体の内側に谺しているからなんだろうと思う。

と同時に言葉について、いつも考えるときに思い浮かぶ一つの立像があって、それがこの「空也上人立像」なのだった。
 
 
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空也上人は、平安時代中期の僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)と称され、口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者とされている仏僧の一人。ひょっとすると名前よりもこの立像の方が有名かもしれない。その門弟は「高野聖」など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えたとされる。

空也の彫像は、六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男 康勝の作)が、最も有名である。他には、月輪寺(京都市右京区)所蔵、浄土寺(松山市)所蔵、荘厳寺(近江八幡市)所蔵が代表的である。いずれも鎌倉時代の作で、国指定の重要文化財である。
彫像の造形は、特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、わらじ履きで歩く姿を表す。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。この6体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。後世に作られた空也の彫像・絵画は、全てこのような造形・図像をとる。


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言霊とか、そういうことじゃなくてたぶん、現実的には、如何に呼吸をコントロールし、呼気を交えずに発語するか。身体の何処の部位に声を響かせ、自分で自分の声をどのように調律するか? 等々が問題なんだろうと思うけど、実践的な学習の場ではそういったロジックを学ぶよりも、イメージで捉えることのほうが近道な場合が多々ある。それが直観というようなことかも知れない。

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