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日々の鍛錬のその先にあるものと、「場」をしつらえる、ということについて

名古屋は台風も過ぎ去って快晴です。ちょっと風が強いですが。

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おかげさまでshelf最新作[deprived]、たいへん好評です。ささやかな作品ですが、ある高校時代からの友人の言葉を借りると、「今まででいちばん自分が作品に参加している感があった。」とのこと。有り難い反応です。とても。

同友人はまた、「自分の生活とも緩やかに地続きな感じがした」というような言葉も残してくれて、それは本当にうれしい言葉でした。だいたい僕は始めからそういうものを目指していたんだし、演劇はもちろんエンターテインメントだけど、そうはいっても同時にもっと、何というか製品とか商品とかのように売り買い出来るようなそんな薄っぺらいものではぜんぜんなくて、口幅ったいことばかり書いているようだけど、ひととき、浮世の憂さを忘れてリフレッシュするための例えばディズニーランドやハリウッド映画のようなそんなファンタジーなんかでなくてね。

たぶん僕も、いい塩梅に上手く歳をとって来たのだとも思う。いろいろなことをあきらめて、というよりか手放して、委ねて。禅の境地かよっていうような、でも確かにそうなのです。昔に比べたらずいぶんいろいろと“待てる”ようになったし、いろいろ手放したら身が軽くなって楽になったし、そこに“余白”が生まれた。

そういうことが確かに、作品に影響を及ぼしているのは感じます。だいたい作品、という言葉が、今回は、なんだかどうもそぐわない。もっと緩やかな、ご来場頂いた皆様と僕らとで一緒に「場」を共有するのだという、そして重ねて来た稽古は作品制作というようなものでなく、そんな「場」をしつらえるための心身の準備であって。

そんな、まあ今どき流行らない、地味な、しかし毎回毎回一期一会の精神で自分に厳しく向かい合い、茶席をもうけるような、そんな作業に根気よく付き合ってくれている俳優たちにはひたすらに感謝です。もちろんまだまだぜんぜん終わっちゃいないんだけど、公演も、その先に僕(ら)が見ている、実現したいことについてもね。

道に終わりはないし、老いも病いも、貧乏も贅沢も、たぶん死さえも渾然一体とした、正解め不正解も、正義も何もない何か、なんだろうなあと。

とあともう一つ。僕らが日々、鍛錬を重ねて培って来たものがあったのだとして、俳優のそれは、いわんや演出家の僕の技もきっとたいへんな苦労と時間を必要とする技なんだけど、実現したら当たり前の、本当になんでもないことに見えるんだろうな、と、最近頓にそのことを考えます。いろいろと面白いです。

  • 2014.10.06 (月) 15:29
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  • 装置としての演劇、あるいは
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  • Yasuhito YANO

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