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壁にぶち当たるということは実は素晴らしいことだと思う。何故ならそれは、自分が行きたい方向があって、そのための課題が分かり易く見えているということに他ならないからだ。障害物のない、まっさらな地平に在って、しかしそこからどちらに向かって進んだら良いか分からない、そんな状況よりかは、遥かにましだと思う。

つまり、ピンチはチャンスということなのだけど。


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フロイト的にいうならば人は、おっぱいを貰う口唇期、排泄のコントロールを学ぶ肛門期を通じて、身体の内側であり且つ外側でもある口唇や肛門という内側を隠す。そして身体を「外側化」し、また性差を意識する男根器、性欲を抑制することを学ぶ潜伏期、こうした段階を経て成人としての性欲が芽生え始める性器期を通じて、身体を「社会化」していく。

そのようにして身体が「外側化」され、「社会化」されると、何が起こるか。そこに至って、人は自分の身体への意識が希薄になり、身体の輪郭がぼやけてくることになるのだ。じっさい、大人になって、自分の身体の輪郭、つまり、自分の身体の境界がどこにあるかを考えているという人はほとんどいない。

というか、ふだんから身体の輪郭を意識していたら、日常生活なぞ決して送れやしない。満員電車になんか乗れない。満員電車のなかでは身体の輪郭どころか、自己すらも消していなければやっていけない。

だがしかし、そんな社会的な自分だけで生きていると、子どものころに感じた、あの「輝き」がどこかに消え去ってしまう。そして人は、パンだけで生きられないのと同じく、あの「輝き」がなければ生きているという実感がなくなってしまう。

そのぼやけてしまった身体の輪郭を取り戻し、自己を確認することができるのが、性的な交り。人は人から「愛撫」され、「触れ」られることで、自分の身体の輪郭をもう一度感じられるようになる。

そしてキスやSEXという(身体の内側であるところの)粘膜どうしの「交わり」を通じて、忘れられていた「内側」が、もう一度「外」に出てくる。


などなど、これらは安田登さんの「あわいの力」(ミシマ社)からの覚え書き。

面白いです。心の由来を探るのに亀甲文字やラテン語、ギリシア語や、果てはヘブライ語、アッカド語、古代シュメール語にまで語源を遡る、そのプロセスがとてもスリリング。

見えないものを見る力。「不動」という激しい振動。舞台上でただ座る、それは「高速に回転しているコマのように座れ」ということ。「振動」としての振り、歌。「歌」の語源に「打つ」があり、「訴える」があるという。天地や鬼神とコミュニケーションするために「振動」によって、動かす。揺り動かす。

その他にも、例えば考えるの語源が「か身交ふ」であり即ち身体を環境と交わらせるという呪術的行為であったということなど、それは単に内に閉じこもって沈思黙考するような作業ではなく、身体を外に開いていくプロセスそのものが「考える」である、ということなど、など、まるでそれは演劇という“行為”そのものを説かれているようで、非常に示唆に富んだ書籍です。


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ノルウェーに持って行く「幽霊」、昨日初めて通し稽古をしました。クリアしなければならない課題も多いけど、それらが通し稽古を通じて明確になり。本番へ向けて確かな手応えを感じつつあります。

渡航日まで後5日。今日は2回、通します。森下スタジオにて。さあ。出かけるか。

  • 2014.09.07 (日) 12:26
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  • Yasuhito YANO

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