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手放すこと

ところで一昨日の東洋大学での演劇WSでは、自分的に大きな発見が、ほんとに大きな発見が幾つかあったのだった。

ひとつは、声と言葉とからだの関係について。この日は実は、事前に何にも用意していかなかって、その場で即興的にWSプログラムを考えたのだけど、

からだから発した音が「言葉」になる直前の「声」として、そのままに在る。言葉以前の段階で、発語の衝動が生成される瞬間をつかまえる、そしてその状態で、お互いにコミュニケーションをとることを試行してみた。のだけど、それがとっても素敵だったのだった。学生さんたちのパフォーマンスもとっても面白かったし、僕も一緒になって参加してみたのだけど、とにかく僕自身、楽しかったし、そこでの発見にとても興奮した。

言葉にならない声、呻き声や喘ぎ声、みたいなのが、ある瞬間にふと旋律のようなものを伴って、「歌」になる。ような瞬間が、少しだけだけど垣間見えた。ようにみえた。

それはずっと昔から僕が創作のモチーフのひとつとして持っていたことなのだけど、ずいぶんと長いあいだそのことを僕自身忘れてた。

といってそれが、すぐ自分のクリエイションの場にフィードバック出来るようなものかってとそんなわけじゃない。んだけど、その発見、というかそれを思い出すことが出来たのはとても大きな収穫だった。

学生さんたちにはホント、贈るものより貰うもののほうが多い。それはもう、申し訳ないくらいに。

もうひとつは、今まで僕はWSでは必ず、まず最初に何らかの仮説を立てて、その仮説を試行のための条件として、共有し、そのうえでそれをもとに実践してみて、得た結果、というか感じたことを各々言葉にして、お互いにシェアしましょう。ということをやって来たんだけど、

それが、参加者もファシリテータもお互いにイーブンで、かつクリエイティブな「場」を作って、何かを持って帰って貰うために必要なことだと思っていたのだけど、

今日は思い切ってそれを手放してみたのだった。

そしたらそれが、なんというか、その結果、みんながとても自由になれたのだ。

だいたいそもそもが、言葉に出来ないことをやりたくてアートなんてことをやってるワケだから、プロフェッショナルな俳優相手でもなければ、(という条件も、もはや疑う必要があるのだけど、)

言葉に出来ない(したくない)ことがあったっていいじゃないか。

言葉にしてシェアしましょう、というと一見聞こえはいいけれど、それって知らず知らず強制、というか圧力になってんじゃね? ってことに、いまさらながら、気づくことが出来た。というか肌身を通して初めて実感した。

沈黙も応えなのだ。喋りたくない子がいたっていいじゃないか。

と、そんなことに気づくことが出来たのも、最後の一つ、これはもう「コロンブスの卵」的な、自分の世界観がひっくり返るような体験だったんだけど、実はそのことについては前に自分でブログかなんかにも書いてたんだけど、その時点では自分で書いていながらもその意味をちゃんとわかってなかったんだな。というのはつまり、この東洋大学のワークショップは一応作品制作を目的にはしているけど、いわゆる成果は求められていないということ。

しかも期限もなく、作ってみて、発表したくなったらしたらいい、それも学内でも学外でもどっちでもいい。という条件があって実施している、ということによるのだけれど、

ふだん何気なく、演劇ナンテ「効率」トカ「合理的」トカッテ概念カラ、カケ離レタモノダヨ。と偉そうに言ってたくせに、他でもない自分自身が、学生さんたちに楽しかった、とかタメニナッタ、みたいな実感を持って欲しくって、成果を出すことに急いでいた。ということに、繰り返しになるけど今更ながら気づいたのだった。

で、そのことに気づいたら途端に目の前の視界がぱあっと開けるように明るく、そしてからだが軽く、なったのだ。

東洋大学での演劇WS、ここに来て俄然楽しい現場になってきました。shelfでは試せないことが試せそう。嬉しい。幸せだ。


ファイル 1022-1.jpg

写真は雨上がりの雑木林。いつも通り抜ける西門から校舎までの「木漏れ日の道」は、風情があって歩いてていつもとても心地よい道です。

  • 2013.04.13 (土) 09:34
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  • Yasuhito YANO

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