「語られる」その、内容ではなく

― 演出家宣言 2003
矢野靖人





 イラク戦争時、新聞で散見した記述の一つに“米軍の「従軍ルール」のもとで報道しています”という記述があって、この記述に私はいつもちょっとした違和感を感じていた。

 違和感といってもそれは決して「従軍ルール」そのものに対する疑いではない。「従軍ルール」とは大雑把に言えば「作戦の安全を守るため」取材された情報の公開の可否を決めるそのガイドラインのようなもののことだ。それはきっと確かに必要なもので、骨子を読む限りにおいても、まっとうで正当なモノなのだろう。そうではなく私が違和感を感じていたのは、記事の片隅にしばしば現れる“米軍の「従軍ルール」のもとで報道しています”という文章、その記述それ自体なのだった。

12年前に書かれたある作家の文章を思い出す。

> わたしたちは「湾岸戦争」というものをテレビで見ることができました。そして、わたしは二つのことを面白いと思いました。一つは「当局による検閲済み」というテロップで、バグダッドからの中継には必ずそれが入っていました。ところが、ニューヨークからの中継や日本のニュース番組でキャスターがなにかをしゃべっているところにはなんのテロップも流れないのです。わたしの考えでは、あの「当局による検閲済み」というテロップはテレビ会社がやった唯一の誠実な行為です。そして、ニューヨークからの中継や日本のニュース番組でキャスターがなにかをしゃべっている時や野球の中継の時にも「当局による検閲済み」というテロップを流すべきだったのです。それはテレビが流しているどんな情報よりも、価値のある映像だったはずなのです……。

> もう一つは、「湾岸戦争」についてしゃべったり書いたりした人々が、例外なく、「わたしは知っている」という態度をとっていたことです。だれも「わたしはなにも知らない。イラク人の知り合いは一人もいない。サダム・フセインがなにを考えているかわからない。ブッシュの言っていることにどの程度真実が含まれているのかわからない。イスラエルの歴史も知らない。わたしにはなにもわからない」とは言わなかったのです。わたしの考えでは、まず、言われるべきであったのはそのことであったのです。「知らない」ということがなにより重要であったのです。

(高橋源一郎:「正義」について LITERARY Switch 創刊記念講演の続きとして行われた架空の「講演」/扶桑社 LITERARY Switch から引用)

  このあと筆者は、しかしながら自分がテレビに出てしまったとき、自分もまた沈黙で以っては応えられず「何かを主張」してしまっていた、とそう続ける。

「ところが、わたしもまた、テレビのフレームにぴったりおさまって然るべきことを言っていたというわけなのです。」

  マスメディアの言葉には主語がない。や、むろん正確には「主語」はあるのだか、主体というか、その言葉を発しているその人の顔が見えない。それはつまり誰かの意見や個人的な考えではなく、誰から見ても同じに映る客観的な事実をこそ、マスメディアは伝えているのだとされているからである。日頃我々はそのことをさして異なこととは受け取らないし、気にも止めない。それは実に巧妙に隠蔽されている。

 ところが稀に、例えば映像の片隅に「当局による検閲済み」というテロップが流れた時、(はからずも?)剥き出しされたマスメディアの主体に私達は遭遇する。

 バグダッドからの映像に「当局による検閲済み」というテロップを流したテレビ局は、しかし、ニューヨークからの中継や日本のニュース番組でキャスターが何かを喋っているところには、なんのテロップも流さなかった。それは、そのテレビ局が指し示す「当局」とはバグダッドの「当局」であって、自分たちはそこに含まれない、とそのテレビ局が考えていたということである。そして他でもないその行為によって、そのテレビ局もまた同じ「検閲」する「当局」であることがそこで露呈していた。

湾岸戦争から12年たった今、主体の隠蔽はより巧妙になっている。

“米軍の「従軍ルール」のもとで報道しています”

 この文章において、主体は一見、読んだそのままに、読み手の目の前にあるかのように見える。「従軍ルール」に従うということは、必ずしも「誰から見ても同じ客観的事実」を「全て」書いてあるわけではないという、言葉を強くすればそれはある種の検閲の元に書かれていることを、この文章は先ず明言している。しかし、この言明は「従軍ルール」に従うということで、つまり「検閲」の主体を「従軍ルール」にすりかえることで実は自らの記事の自己「検閲」(の可能性)を隠蔽してしまってはいまいか。本当に自己の判断と責任で記事を書いているのであれば、わざわざ“米軍の「従軍ルール」のもとで報道しています”などと改めて記載する必要はない。にも拘わらず斯様な記述を付記するということは、つまるところ思うとおりに私は書けていないのだよという、ただの言い逃れを書いていることになる。そしてそのことは、その記事の全体に影響する。「確かに私が書いているのだけれども、私の書きたいことがすべて書けている訳ではない」。その記事は、客観的な事実を述べているようでありながらむしろ正反対の代物としてある。そこには既に主観的な言明としての価値すらない。かつて隠蔽されていた(だけの)はずの主体が今や失われてしまっているからである。この記事の記者個人を批判したいわけでは決してない。問題は、斯くも困難な状況下にあるこの国のメディア、ひいてはこの国の言葉の現場そのものにある。

 言葉はその主体が明確にされて初めて機能する。自己の言明はあくまで自己の認識能力、価値基準の範囲内でしか書かれ得ないというその限界、ある種の「偏り」をはっきりと自認したものだけがひとつのアクションとして機能する。そして言明は、言葉の発話者たる言葉の主体とその主体の持つ限界を伴なって初めてコミュニケーションの契機となる。主体の失われた発話は、同時にまた対象も見失い、暗闇に永遠に谺する。それはもはや独り言ですらない。ここに挙げた長大な引用の挙げる問題とは、言い換えれば即ち、

 言葉の主語としての『私』 ≠ 発話する主体としての『私』

というところにある。

人間は言葉で出来ている。それは主語としての「私」から始まる膨大な言葉=テキストの集積体に他ならない。近代以降、『私』という場所はそのように『私』から始まる様々なテキストの集積として形成されてきた。然しながら、その言葉は先にも述べたように人間を主体として、人間に発話される限りにおいて初めて機能する。そしてこの循環こそが、この時代のコミュニケーション不全の端緒となっている。

引用文後段の、限りなく何も知らない『私』とは上記、発話する主体としての『私』であり、然るべきことをしか喋ることの出来ない『私』、「私は知っている」という態度しかとれない『私』は言葉の主語としての『私』に他ならない。なぜなら『私』という概念は、発話の主体を引き受ける主語でありながら、同時にテレビのフレームさながらに発話の枠組みとして(不可避的に)機能してしまうからだ。『私』は『私』に疎外される。『私』が『私』という場所に立つ限り、どこまで行っても私はそこに堆積するテキストの網に絡め取られてしまうのである。

 ところで言葉の集積=テキストとして人間をとらえたとき、それがまた外部に描き出した言葉の集積としての戯曲=テキストはひとりの人間のアナロジーとなる。

演劇をひとつのプロセスとして考えれば、俳優は、テキストとしての人間でありながら、予め用意されたテキストに立ち向かう存在となる。俳優は、本来の発話=テキスト発生の現場から一歩、後退する。一歩後退することによって、他でもない発生の現場をトレースすることを俳優は可能とする。

 私はこの現場を捉えたい。そして、この現場を捉えることが人間という「テキスト」を読み解くための、唯一のとっかかりになるのではないかと今、考えている。『私』という場所を突破し、もうい一度主体を取り返すためには、もう一度『私』を引き受けなおすしかない。

世界と、そしてあなたとの関係を取り結ぶために。世界を覆い尽くしているこの既存の言葉を刷新するために、私は演劇を仮借する。

 私にとって演劇とは、「人間」と「言葉」との関わり方の探求そのものなのである。

 

初出 雑誌 「演劇人」 013号 (編集・発行= (財) 舞台芸術財団演劇人会議)
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