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戯曲の読み方(1)

そういえば、今日のワークショップで、歌舞伎俳優のNさんから「戯曲を誤読しない方法」について質問されたのだった。言い方を変えると、戯曲の正しい読み方について。

――難しい問題だと思う。正解はない、と言ってもいいかもしれない。むしろ誤読したほうが面白い時さえある。

ただ、基本的に僕が考えている読み方というのは、というか自分がどう読んでいるか、についての覚書みたいなものになるのだけれど、

戯曲の読み方については、俳優のその発語がきちんと言葉の上っ面の説明でない、言葉の発語“行為”を起こすための内なる“衝動”に支えられているかどうか。その衝動はどこにあるのか。ということに気をつけて読んでいる、と思う。自分は。

俳優=actor であって、俳優の言動はすべてaction=行為でなければならないと思う。そしてすべてのaction は、相手の反応=re-actionを想定している。それが思い通りになるか、裏切られるかに関わらず。誤解を顧みずに言ってしまえば、自分の発語“行為”によって、相手の身体をどう“変える”か。どのようにそれを狙っているか。が十全に考えられてなければならないと思う。俳優という職業の仕事については。

そしてそれは逆もまた然り、で、相手役の衝動にどこまで期せずして自分が揺さぶられるか。というのも“読み”の重要なポイント。読みではなく立ち稽古になってからはまた違った問題が生じてくるとは思うのだけど、

つまり相手の挙動にどこまで自分が影響されるか。自分が企図している演技プランについては十二分に準備をしておきながら、その時その場でどこまで想定外のことに反応できるか。受け入れられるか。

そのために身体と心をどこまで開いていられるか。

だと思うのだけど、

この問題。非常に難しい問題なので(今は思うがままに筆を任せているだけので、)また改めて後日、じっくり考えてみたいと思う。

なぜその場所に立っているのか。

なぜその場所に立っているのか。なぜその言葉(テキスト)を口にするのか。というそのことについて深い思索が欲しい。

単に役作りとかいうレベルの問題ではなく、なぜ自分が演劇というメディアを選択しているのか。何を実現したくて、どういう瞬間にめぐり合いたくて何が欲しくて俳優という職業を選択しているのか。という大枠の、根源的な衝動と上記のなぜ? がどこかでちゃんとそれこそ一言、一句のレベルで繋がっていないと、本質的な表現にならないのではないだろうか。

俳優の資質として、

俳優の資質として、どこまで自分のなかに矛盾を抱え続けていられるか。というのがあると思う。

矛盾した感覚の蓄積をどこまで経験として持っていられるか。それは葛藤とかって言葉では足りなくて、良心とか良識というものに“反する”衝動をどれだけ自分のなかに感じたことがあるか。という。

人間を演じる以上、人間の持ち得るあらゆる可能性を(それは負の感情・感覚も含めて、だ。)経験する覚悟がなければならない。少なくともそこに対して、常に開かれていなければならないと思う。

端的に例えば誰か他人や肉親に対して殺意を抱くほどの愛憎を覚えたことがあるか、とか、自死を思ったことがあるか、とか、社会性を担うべき一人の人間としてそれを抑え込むだけの理性を持つと共にそれを超えるある種の“破綻”の経験が、優れた俳優には必要とされているんじゃないかと思う。

つくづく業の深い職業だと思う。

詩森さんのブログのこのエントリが面白い。

戯曲の技術 その1
http://ameblo.jp/shimorix/entry-10365954432.html

戯曲の技術 その2  どうやれば戯曲は構造化するか
http://ameblo.jp/shimorix/entry-10369054039.html#main

特にその2、いろいろと目から鱗。詩森さんには是非、今回の「私たち死んだものが目覚めたら」を分析してみて欲しい。と思った。いや、自分でこれを演繹してみればいいのか。それも今さらか。

でもやってみよう。きっと有意だと思う。

時間あるかな。

コメント一覧

| ysht.org url (10.28 23:11) 編集・削除

その3も出ましたね。

戯曲の技術 その3
http://ameblo.jp/shimorix/entry-10373642712.html

「このエントリはヨタヨタ、と、のんびり、続きます。」とのこと。とても楽しみです。

発語という行為についてのメモ

誤解を恐れずに言えば、ちゃんとこれを、この難解な戯曲を自分たちの話に、自分たちにとって切実な問題になるよう取り扱わなくちゃいけないと思うんだ。

もちろん戯曲を身近な所に引き寄せて、矮小化して分かったような気になって演じてしまうなんてのはぜんぜんNGで、さりとて分からないまま後生大事に神棚に上げ奉るのでもなく、分からない。理解できないということはきちんと認めた上で、それでも懸命に相手のことを想像する。橋をかけようとする。他者でありながらどこまでも無視できない切実な相手として彼と付き合う。

例えば俳優なんか、役の台詞のことなんて本番の最中まで、その言葉を発しているまさにそのさなかまで、その言葉の本当の意味なんて分からないままでいてぜんぜん構わないと思う。(だって人間なんて、自分が何故そんな言葉を発してしまったのか。なぜこんなことを喋っているのか分からないまま喋っていることの方が多いんだから。)

ただしそのことを考え続けること。喋りながら、ときに喋っていることに後悔しながら、それでも相手に理解して貰おうと自分の言葉が相手(*ただしここでいう相手というのが自分自身であることもある。)にどのように聞こえているのか想像し続け、自分の言葉を自分でも徹底的に聞き続けること。

いちばん大事なのはその行為を相手との関係の中で、相手に対するアクションとして構築すること。(そこではとうぜんリアクションを期待しながら、のアクションになる。)

そのために、つまりどのようなリアクションを期待して、何故こんな言葉を自分が発しているのか考え続けること。ダイアローグにしろモノローグにしろ、その言葉を発せざるを得ない根拠を、衝動を抱え続けていること。(その言葉が衝動から導き出される正解そのままでなくて構わない、いや、むしろ言葉の“意味”から導き出されるそれとはぴったり正解でない方が面白いしきっと正しい。)

そういう衝動を時に役柄から導き出し、時に自分自身の人生を参照項にしつつ、しかし最終的には他でもない自分自身にとって切実なものとして台詞の背後につかまえられるかどうか、がいちばん大切なことで、少なくとも僕にとってそれが俳優の仕事だし、演出が考えなければならない仕掛けとはそのための、そういうものだと思う。

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