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装置としての演劇、あるいは劇場体験ということについて (4)

で、けっきょく何が言いたいのかというと、「芸術の魅力は体験にこそある。」ということで、畢竟、演劇の場合はそれは「劇場体験」にこそある。

ということになるのだけど、こんなことは既にあちこちで言われていることで、ただの繰り返しにすぎない。

ただ、そういった体験を引き起こす装置として演劇作品や美術、インスタレーションなどを考えるとそこには少なくとも二つの機能があってそれが、

1.観客の<感覚>を鋭敏化させる 2.観客の思考を加速する

になるのではないか。逆にいえばこれらの機能が備わってさえいれば、演劇には実は「物語(起承転結などの分かりやすい筋道やテーマ、メッセージ。それを担う"主人公”などといった、古典的な物語の枠組)」は、必要ないのかもしれない。というようなことを、マレビトの会「パライゾノート」を観ていて考えたのだった。

で、このところずっとそういうことを考えていて、ふと、『ヌ・ドゥ・ネージュ/雪の結び目』 のことを思い出した。

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『ヌ・ドゥ・ネージュ/雪の結び目』は、フランソワ=ミッシェル・プザンティというフランス人の演出家による作品。

2003年、フランス人の俳優と青年団、ク・ナウカ、山の手事情社の日本人俳優が参加した、青年団国際演劇交流プロジェクト2003という一連の企画公演の演目の一つで、僕は同年6月に世田谷シアタートラムにて初見。音楽セクションを稲田光造さんが担当されていたのもとても刺激的だったのだが、思えばここで考えたことが、今のshelf のコンセプトのひとつの基点になっているといっていいかも知れない。俳優の身体について。(俳優の)身体に現象するドラマについて ...

googleで検索してみたら、風琴工房の詩森さんが、 コラム(2003.06.26の記事)で、非常に丁寧な解説を書いていらした。本題でないところかもしれないけど、感動したのが下の箇所。"抽象”ということについて、カンディンスキーの仕事を例示しながら書いてあるのだけど、

引用 | COLUMN
http://windyharp.org/windyharp/colum-other.html


しかし、この作品( 注:『ヌ・ドゥ・ネージュ/雪の結び目』 のこと )の高い抽象性が、抽象というものが持つ、本来的な、原初的な欲求に基づくものだということを観客は理解したほうがいい。すなわち抽象というのが、ある「モノ」の本質をよりダイレクトに掴もうとしたときに発現する、というシンプルな事実だ。世界ではじめて抽象画という概念を作ったのはカンディンスキだが、彼がある「対象」を描こうとして、それを解体していく作業は、まさにこの「抽象」のダイナミズムを「具象化」したものである。カンディンスキは「ワケのわからない」「なにが書いてあるのかよくわからない」絵画を書くことを目的として「抽象画」を書いたワケではない。より「対象」の本質に近い形象を求めた結果、線が省かれ、かたちが融解していっただけなのだ。この「過程」をともなわない「前衛」ひいては「芸術」ほど空しいものはない。それはただのスタイルに過ぎない。

それでは、『ヌ・ドゥ・ネージュ/雪の結び目』で、プザンティが掴もうとした"ある「モノ」の本質”は何だったのか?  詩森さんの言葉を借りれば、それはまさに「俳優自身の生の感情、リアルな身体」性そのものだ。そのことについては演出家も自身で言葉を尽くしている。

以下、引用 | ラ・フリッシュ・ジャーナル掲載
99年3月に行われたベルナール・アンドルー氏との対談からの抜粋
http://www.seinendan.org/jpn/oversea5/review0205.html


私の関心は、あなたがあなたの例外性について説明をするところにあります。あなたが舞台に現れるときの例外性とは何ですか? 私にとっては、まずそれはあなたの歴史です。あなたの歴史は、あなたの体の節々に描かれています。私はそれらの立てる音が、それらが挟まって動かなくなっている場所や、それらが広がっていく場所が、聞こえます。あなたの仕種とその発する音が、あなたの例外性なのです。で、あなたにとっては、あなたの仕種は、何を語っていますか? それは必ず、世界とのあなたの関係を語っています。

「生の感情」「リアルな身体」が、日常そのままの身体でないことは言うまでもない。詩森さんも指摘しているように、非常に高い抽象性を持ちつつギリギリな「生の感情とリアルな身体」をしかも反復的に繰り返すために、演出家と俳優たちは眩暈のするような周到な準備をしている。


 では、舞台上に現れるとき、世界とのあなたの関係とはどのようなものですか? あなたは必然的に不法に舞台上にいるわけですから、どのように自分の存在を合法化しますか? どのような “生まれさせたいという意欲” で、あなたの存在を合法化しますか? この俳優に対する概念は確かに破壊的なもので、 彼らは “感じた” ことや“人生のように” 演じることからかけ離れた想像作業を余儀なくされます。俳優はそれに耐えることができません、というのは、彼らは自分たち自身を「どうやって歩くのか?」と聞かれた百足のように感じるからです。

そのような不可能な試み ― 俳優に、歴史や記憶、俳優が稽古場で過ごして来た時間その他膨大な量の情報を、それも自覚的に背負せながら、同時に徹底的に現在性、現前性をも背負わせようとする ― を通して、演出家は、そこに何を見ようとしたのか。それは、誤解を恐れずにいえばそれはこの、言葉や身体と、身体の記憶とで幾重にも折り畳まれたこの「人間」の「存在」そのもの、だったのではあるまいか。


私は作品のなかで、過去の題材を操ると同時に、この操作を現時点で実行するように要求します。つまり、俳優は上演の間、ある狙いを持って、何か、とりわけ稽古で構成された題材を出現させようと企てるわけです。彼の芸術プランが “自然” に進むのを阻むのは、私の側の、現在 ・今ここで ・今夜、という事に対する強要です。ええ、私は仕事をするうえで常にこのことに固執していますし、この考えは今後も変わらないでしょう。上演作品は、今まさに作られている、というふうに観られなければいけません。このことが俳優にとって危険な実践で、新しい実践を行えば行うほど危険になる、ということに関して、私は疑いを持ちません。俳優がそこから身を守ろうとするこの危険こそが、彼独自の奏でる詩に応じて、彼を “存在” させるのです、時々は神々しいまでに。

装置としての演劇、あるいは劇場体験ということについて (3)

装置としての作品、ということについて。

ところで、芸術作品には二つの基本的な機能があると思う。というのは、今回、マレビトの会を観る前に アマノ雅広 北義昭 『写真による藝術+++++』展 に行ったときに考えたことなのだけど、

1.観客の<感覚>を鋭敏化させるための装置 2.観客の思考を加速するための装置

という二つの機能だ。

北義昭の展示は、強い眼をした辺縁の民族の子供たちのポートレイトと動物の鱗や足、皮膚をグロテスクなまでに接写した写真ばかりで、それらがずらりと、しかも等価に併置される。

そのマチエールの異様なほど緻密さは、観ているこちらの視覚がおかしくなるような感覚を与える。と同時に、視覚の変容に触発されてか、他のさまざまな身体感覚までもがジワっと変容していくようで、観ることによって、身体の快楽が引き起こされる。

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北義昭 Yoshiaki KITA
http://www.nikon.co.jp/main/jpn/feelnikon/nature/visual-sketch/


その一方でアマノ雅広の作品は、これは徹底的にコンセプチュアルなものであった。

特定の期間・場所で購入したニューズペーパーの上に、これまた定点観測的に撮影した何枚かの写真のうちの一点を繰り返し印刷機にかけ、そのことで印刷のドットがばらけて、画像が劣化していく様子(経年的な変化のようなもの)を壁面いっぱいに貼り付け、ズラリと一面に貼り付けることで、それらが空間的に一目で視認出来るよう設えられてあった。

ファイル 125-4.jpgファイル 125-2.jpg

アマノ雅広 Masahiro AMANO
http://masahiroamano.net

ファイル 125-5.jpg

そこには、写真のドキュメント性とそのコピーによる劣化が共時的に浮き立たせられるようなような仕掛けがあり、それを観ているこちらをして、北の写真のような、観るということの身体的な快楽を引き出すというよりか、同行者だったり、あるいは作家本人といろいろと話をしたくさせるものだった。

議論というよりか、対話。対話の契機を開くインスタレーション。

聞けば、スーザン・ソンタグの「この時代に想うテロへの眼差し」にある写真とドキュメントに関するテキストの一節にインスパイアされた作品だったそうなのだが、

そういう意味では、北のポートレイトは誰かと話をしたくなるというより、じっくりと自分の感覚の奥底に沈潜して、そのまま自分の感覚と向き合っていたい。そんな欲求を掻き立てるものだった。

装置としての演劇、あるいは劇場体験ということについて (2)

というわけで今、現時点で僕は、そういうふうに芸術(作品)というものについて考えているのだけれど、

つまり芸術作品を一つの作品として単体で成立するものではなく、1コのプロセスそのものというか、交換のあるもの。動的なものとしてそれを考えているのだけれど、

そうすると芸術(作品)は、これは当たり前のことなのかもしれないけれど、鑑賞者のいないところでは決して成立しない。ということになる。

観劇という行為も、まさいそういった意味で「劇場体験」そのものであり、劇場体験というのは劇場という場所において、観客と舞台とで体験を共にするというプロセスそのもので、だから演劇作品は、それ自体で静的に自律して成立することは決してなく、上演されて初めて作品となる。

「パライゾノート」は、そのことがとても好く分かる作品だった。

誰が見ても同じように楽しめる「作品」なんてそもそもが不可能だ。観客がそれを観るときに参照する個々の持つ情報や体験、文脈や背景は一つとして同じではない。だからこそ、作家はさまざまな方法や、起承転結、序破急といった物語の形式を援用し、観客と文脈を少しずつ摺り合わせる。

そもそも観客と同じ言葉を使って同じような物語を物語るということ自体、それは何故か? と問えば、同じ言語圏に住み、同じ文化を共有している(であろう)観客と、これから提示するそのものごとや場所を共有するためには、それがいちばん手っ取り早い方法だからだ。

ところが、松田正隆はそれを取り払う。選択の余地のないところで、予め“私”のなかに入り込んでいる母語を忌避し(松田はそれを、自分には言葉にレイプされているような感覚がある、という。)それとは異なる、「演劇の言葉」を舞台上に成立させようとする。演劇の言葉を俳優に喋らせようと試みる。

俳優が「台詞を覚える」ということを疑い、あるいは距離感を壊して、囁くようにか叫ぶようにのどちらか極端に割り振り、

あるいは、そもそもの戯曲自体をさまざまなテキスト、小説や映画のテキストの引用の集積として用意する。(そこにはそこに書かれた言葉のみによって共有されるような物語は存在しない。)

通常、演劇で行使されるような文脈共有のための装置の一切が疑われ、放棄され、いずれもに一貫性がない。

ただひとつ、俳優の(身体)がそこに在るという、俳優の現前性だけは信じて、それを媒介にして劇場に、時間と空間とが紡ぎだされていく。

一般的に言って演劇の作り手は、普通、そういうことをしない。何故ならそれは、観ていても「分からない」からだ。

ところが僕は、僕にはこの作品がとても面白かった。僕だけが穿った見方をしていて、というのではなく、あのときあの場所にいた名古屋の観客も、観劇をしながら大いに笑って(!)いたし、客席には常時、舞台に対する非常な集中があった。ポスト・パフォーマンス・トークの現場でも、観客は演出家の語る一言一言に対し非常に熱心に耳を傾けていたし、いろいろな意見や、頓狂な感想なども飛び出て、とにかく盛り上がった。あんなに盛り上がった客席は久しく観たことがない。

ただ、それでも、例えば、たまさか同じ日に観に来ていた僕の知人で、演劇なぞ普段あまりみないという男や、同じく観に来てくれていた僕の母親なんぞにあとで話を聞いてみると「話はぜんぜん分からなかった。」という。

装置としての演劇、あるいは劇場体験ということについて (1)

トピックがだいぶ前後してしまったけど、先週末(3/29~30)名古屋で観たマレビトの会「パライゾノート」の感想と、それに続く総括シンポジウム「演出の重力を巡って」の報告を。

マレビトの会「パライゾノート」はとても刺激的な作品でした。

単に一コの作品として面白かった、というだけでなく、作品を観るという行為を契機に、そこ・その場所においてから今に至るまでいろいろな刺激を受け続け、思考を走らせ続けることが出来た(今も出来ている)という意味で、とても豊かな「体験」でした。

観劇という行為について。一般的に僕らはそれを、ひとまず単純に演劇作品を「鑑賞する」行為と考えがちなのだけど、(そしてそれはおおむねのところでは間違ってはいないのだが、)それは同時に、「鑑賞」である前にまず1コの「体験」でもあると思うのです。

鑑賞と体験。何が違うといって鑑賞には「作法」がある。そこにはとうぜん正しさや優劣を求める機制が働く。あるいは、鑑賞には鑑賞のための「方法」があるのに対して、体験にはそれがない。体験の質、軽重などに違いはあれど、基本的にはそこに作法のようなものはない。

鑑賞という行為は美学や歴史性に依存した系であって、それゆえ鑑賞以前にそれに先立つ(価値)基準がある。鑑賞は鑑賞に先行するさまざまな基準やルールに従い、対象をその基準によって整備された地図の中に配置していくような行為だ。(だからこそ、「鑑賞教育」が成立する。)

アートリテラシーという言葉が指しているのもそのようなことであって、そこには非常に大きな価値と可能性があるし、鑑賞という行為には快楽だってある。

ところで体験には、体験は基本的に観客個々に固有のもので、正解がない。

もちろん、人間の認識の枠組みには先天的なものとそうでないものとがあって、そしてその両方によって体験もまた一定の制度下において統制されてはいる。がその議論はめんどくさいのでひとまず措く。

ただ、ひとつだけいえるのは体験は、特にその体験が強烈なときには、その体験を獲得するための感覚器や、認識の枠組みそれ自体をも突破して、それをして刷新せしめる契機となることがある。

というのもそれは、強烈な体験をした後には、それまでと世界が違って見えてしまう、とか、単純にそういうことが言いたいだけなのだけど、

乱暴に仮定してしまえば、それこそが“芸術”と呼ばれていることの本質なのではないか。そういった“感覚の刷新”にいたる契機が意図的に用意されたモノこそが、芸術作品なのではないか。

ということになるのだが、ちなみにここでいう"意図的に”というところは実はとても重要で、この辺の事情は、「芸術」がそもそもギリシャ語の「τεχνη techne(テクネー)」や、その訳語としてのラテン語の「ars(アルス)」、英語の「Art(アート)」など、元々は単に「人工(のもの)」という意味であった言葉に由来していることや、あるいはそもそも日本語の「藝術」は、リベラル・アート の訳語として造られたものだった。ということなど、いろいろと考え合わせてみるととても興味深い。(「藝術」は「人を自由にする学問」だったのだ!)

コメント一覧

| yasuhito url (04.08 23:38) 編集・削除

ところで今、これを書いていて、まさに書きながらそのことに気づいたのだけど、そもそも「鑑賞教育」は本来、そういった体験を用意するための道筋の訓練なのかも知れない。

もちろんそうじゃない、正解を導き出すためだけの「(鑑賞)教育」もあるのだろうけど、

うーん。

ちょっと錯綜してきたな。ひとつひとつ自分の言葉で、いちからちゃんと考え直してみようとしているだけなのだが、どうにも歯痒い。

もっとシンプルに考えよう。伝えたいことはきっと、もっと単純なことなのだ。

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