本番小屋入りまで16日間。明日から4日間はエイヨルフの稽古だけになるので、と昨日は無理やり最後まで新作の段取りを付ける。構成台本の0(ゼロ)稿が上がってから4日目のことなので過去最短だ。(初稿は昨日配布した。)
段取りだけ先に付けるというのはどちらかというと普段あまりやらない作業。本当は出来ることなら出来るだけ緻密に芝居の最初から時間軸を追って構成を組み立て、意識の流れや視線の配置などを定着させていきたい(そのうえで最後のシーンがどうなるのか、流れの中で見極めたい。)ほうなのだけれども、俳優にとっては全体像が見えていたほうが、自主的な時間の過ごし方も有意だろう。と思ったのと、音響のまやさんに見て貰える日数が本当に限られていたから無理にでも最後までかたちを作っておきたかったのだった。
でもまあ悪くない手応え。もちろんぜんぜん出来てないシーンもあるのだけれど、出来ていないのがどのくらいで、最低限あと何をしていけばいいのか、把握できたのは良かった。俳優も俳優なりに把握してくれていることと思う。今日、時間を見つけてどこかで確認作業をしよう。
けっきょくのところ現代口語は “言葉をどこまで身体に近いところから発語できるか” に勝負がかかっていると思う。特に夫婦二人の会話のシーン。一見取りとめのない会話ばかりなのだけれど、だからこそというか、夫婦であるがゆえにその背後にある物語、共通体験がどれほど多くそこに隠されているか。それがあって出てくる軽さと、表面をなぞるだけの軽さは絶対に違う。
例えば、
「おまえは大丈夫だよ。胃袋が鋼鉄でできているんだから。」
「そんなことありませんよ。」
「放射能を食ったって壊れやしない。」
「壊れますよ。」
「核廃棄物だって処理しちゃうんだから。」
「処理しませんよ。人間なんだから。あなたはどうなんですか。」
「俺のはビニル袋みたいなものだよ。」
「まあ素敵。」
なんて他愛もない会話があるのだけれど、その会話の背後には絶対に、例えば同じものを食べたのに妻はお腹を壊さなかったのに夫だけ腹を下した、とか、そんな何かしらのエピソードみたいなものがあるはずで、それについての、それは勝手なイメージでいいんだけれど、絶対に“具体的な”イメージ**(というかビジョン? 少なくともそれはイメージって言葉だけでは足らない。誤解を招く恐れがある。そこには身体の衝動や、各感覚器官の末端に立ち現れる言語化される以前の様々な一次情報も含みうると思う、だけど取り敢えず分かりやすく言えばイメージとしかいいようのないようなそんなもの)を、発語に先行して胸の中にどれだけ豊かに持っていられるか、持っていながら言葉を発することが出来るか。
言葉に発せられる/出来るのはコミュニケーションのほんの氷山の一角にすぎない、ということをどこまで実際的に身体でつかまえられるかどうか。
(**ここで触れている“イメージ”については、チェルフィッチュの岡田さんもどこかで誰かから指摘されたと書いてたけどそれは、“シニフィエ”と言い換えてもいいかも知れない。それはソシュールの言語哲学の用語なんだけど、)
それにしれも方法や目指すところが違うから普段あまり気にとめないのだけれど、こういう時ばかりは例えばチェルフィッチュの岡田さんが稽古場で俳優とどういう作業をして来たのだろうか、ということがとても気になる。(そんなに数を見ているわけじゃないし、いちばん最近のはアジア舞台芸術祭のショーケース作品を見ただけなのだけれど、)チェルフィッチュの俳優は本当に身体に近いところから言葉を発するのが上手い。演じていない、と言うと嘘になるのだけれど、少なくとも他者を表象しているようには見えない。といって、自分の言葉かというとそれは絶対に違うのだけれども。
今日からエイヨルフ再演の稽古。こちらは今取り組んでいる新作と違ってここ数年 shelfが取り組んできた様式/方法の集大成のような作品。なんだけれども再演とはいえ“作品”は常に、“今・ここ”にアクチュアルなものにしたいのできっと微妙に作り直してしまう部分も出て来ると思う。こればっかりは稽古をしてみないとわからない。
円の山根さん、ユニークポイントに客演していたケイスケらが稽古に合流する。久しぶりに彼女らと一緒に作業できるのがとても楽しみだ。