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本日初日です。

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日付も変わって、本日いよいよ初日です。

shelf 07 『 Little Eyolf ― ちいさなエイヨルフ ― 』、アトリエセンティオ特別企画 SENTIVAL! のオオトリを飾らせて頂きます。

本日無事、ゲネプロ(一回目)を終えました。

ギリギリまで粘りましたが何とか、今回もshelfクレジットに恥じない、というより何より自分の魂に嘘をつかなくて済む作品をお届けできそうです。もちろん、お客様のご期待にそうことが出来ればそれがいちばんの喜びではあるのですが。

新しいことに挑むときには、磨り減るものも多いです。じっさい大きな痛みが伴う作業でもあります。

本番を迎える当日まで、(初日の幕を開けて以降も!)まだまだ気の抜けない日々です。

今回、shelfを始めて以来初めての、複数人の“所属”俳優たちと創作をしております。集団を抱えて初という意味ではまさに、旗揚げ公演のような勢いです。

そういう意味で、作品そのものだけでなく、新しい集団の始動に立ち会うような、若々しい心持ちもあわせて楽しんでいただければ幸甚です。

皆様のご来場、心よりお待ちしております。

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photo / Mari HARADA

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| ysht.org url (07.17 02:58) 編集・削除

ちなみに7/18(金)夜の回のみ、ですが、既に前売を完売しております。

他の日程についてはまだお席も十分にあるのですが、なにぶん小さな劇場で、日によっては急に満席になってしまう可能性もございます。ご観劇をご予定の方はくれぐれもお早目のご予約をお願いいいたします!

COLLOLの次回公演にコメントを寄せさせて頂きました。

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COLLOLのCOLLOL次回公演「ひらかなくてもよい ~泉鏡花作『天守物語』より」にコメントを寄せさせていただきました。同世代、というか同い年! ということもあって、田口アヤコさんとはなんだかんだお互い刺激し合っています。いい関係だと思います。

http://homepage2.nifty.com/taguchiayako/openornoopen/diary.html

公演特設Webサイトの写真がとってもきれいですね。

来週は、shelf 公演初日(7/17)にトーク・ゲストに来ていただく予定です。

http://theatre-shelf.org/index02.htm

同じく同い年のNEVERLOSE の片山雄一氏と30代前半の演出家が共通して抱える課題と展望について、熱いトークができればとおもっています。

お時間ある方はぜひ!

公開稽古をします。

稽古場で利用させて頂いている川崎市アートセンターのクリエイション・サポート事業の一環として公開稽古を開催します。

 日時:7月11日(金)13:30~16:30 ※入場無料、申込不要です。

川崎市アートセンターは、小田急線「新百合ヶ丘駅」北口下車徒歩3分。小田急線新宿駅、本厚木駅より急行で27分、小田急線新宿駅より快速急行で23分です。意外と? 近いんですよ。

ご興味ある方はぜひ。


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shelf 07 『 Little Eyolf ―ちいさなエイヨルフ― 』、いよいよ来週本番です。

今日から一週間、川崎市アートセンター・アルテリオ小劇場を稽古場にお借りしています。同センターのクリエイション・サポート事業によるアーティスト支援枠によるものです。

http://kawasaki-ac.jp/theater/080613/index.html

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それにしてもやっぱり劇場はいい。

演劇を作るための空間、劇場体験をするための空間ですから。特にアルテリオ小劇場は客席数も195席(最大214席)と、サイズも手ごろで、親密感と緊張感とが同時にあって。空間の大きさの違いに戸惑いつつも、俳優たちもしっかり場から力を貰っています。もちろん、貰うだけでなくここからさらに、場に力を返して、エネルギーを循環させていかなければならないのですが。

使用料は5,000円/日、劇場をそのまま借りてこの金額ですから、ホント、破格です。演劇は場所にもっとも制約される芸術のひとつです。それは本番だけでなく、創作過程においても。

なので、こうして劇場施設に創作過程において支援をいただけることは本当に有難いことです。

感謝×感謝!!

利賀演劇人コンクールの一次審査を通過しました。

利賀演劇人コンクールは去年まで「演出家コンクール」だったのが、今年から選考対象を「演出」以外にも拡大したもの。演出家コンクールから数えると今年で9回目の開催になります。


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会場となる利賀芸術公園はこんなところ。
http://www1.tst.ne.jp/togapk/

上演日時は8月25日(月)の夜、僕らは22日(金)に利賀入りします。この7月にSENTIVAL!で上演する 「Little Eyolf ―ちいさなエイヨルフ―」 をもってのぞみます。

しかし、それにしても上演会場が、野外特設会場って、、、ハードル、高すぎですよ。

shelf は野外初体験。僕も、もちろん俳優たちも。

スタッフだけが、偶然ですが野外経験豊富な方たちが集まっていて、それが何よりの救いです。心強い。通知を受け取った時はもう、しばらく呆然としましたよ。覚悟が決まってからはかえって燃えて来ていますが。

今からとても上演がとても楽しみです。

くそうっ、雨でも風でもどんと来やがれっ!

詩人の言葉

いつだったか、どこかのテレビ番組で、詩人が語っていた言葉をふと思い出した。


詩っていうのは、誰にも言いたくないことを分からないように言うことなんですよ。


正確な記憶ではないし、細部はもっと気の利いた違った言葉だったかもしれない。しかしそれでも、とても印象に深く、ずっと記憶に残っている。

表現をするということは他者に向かって限りなく自分を開くことだと思う。晒されるということだと思う。

自分を開くということは、本当はとても怖いことだ。表現をする者はそのことをちゃんと分かってなければならないと思う。しかし人は、慣れてくると人はそのことに、ともすれば鈍感になる。あるいは、開いているつもりでそれと知らず、いつのまにか自分を、自分の考えを他人のそれとすり替えて、ちゃっかり自分を守ってしまっている。

(保守的になるということはそういうことだ。)

自分が傷つかないような、怖くないような表現はない。そんなものは嘘っぱちだと思う。

場所の力 / 演劇の力

投資実践Webマガジン MONEYzine 取り上げられていた、トリのマーク(通称)「カフェこぐま」についての記事が面白かった。

「カフェこぐま」について、あるいはトリのマーク(通称)という劇団の活動については以前からずっと関心を持っていたのだけれど、この記事にはきちんと劇団の活動に沿って書かれてあって。

読み応えがあります。(投資や起業についてのWebマガジンなのにね。)


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十人十色の 『起業家』 図鑑
「昭和2年築の古民家カフェを夫婦で経営 地元密着で自らアート発信の場を作る方法」
http://moneyzine.jp/article/detail/66568


そしていま、次回作品を作りながらずっと、演劇そのことについて考えている。演劇について考えているのと同時に、やっぱり場所ということについて、考えている。

先週の SENTIVAL! の A.C.O.A. 『-共生の彼方へⅢ-人間椅子』 がやはり、こちらの期待に反せず、とても面白かった。面白い、というような軽い言葉では言い尽くせない切実な体験があった。表現する力、あるいは劇場という場所の持つ力を信じた。

不幸にして僕はそれ以前を観ていないのだけど、史朗さんの表現が今のあの特異なスタイルになったのも、那須という土地と、あの場所との関係があって、そしてその場所での人々との出会いがあって、醸成されたものなのではないかと思う。

本人に聞けばいつも、それは偶然だったんだ、というけれど、しかし少なくとも今そこにある表現には間違いなく、ある種の必然が感じられる。そのことに驚かされる。

傍で聞くよりもずっと、那須で暮らし作品を作るということはきっと東京で演劇をつくるよりずっと強い意志と、表現への欲求とがなければ支えられない大変な作業なのだろうと思う。この出会いを寿ぎたい。

そして、atelier SENTIO という場所について。

七ツ寺共同スタジオという場所について。

気づけばどちらも、いわゆる劇場としての設備や観劇環境の整った場所ではなく、しかし、というかだからこそ、というか。僕にとってはどちらもとても、愛着のある場所で。

僕らにとっての演劇=劇場体験が得られる場所って、実はもう、今の東京では、いわゆる“劇場”では難しいのかも知れません。

少なくとも今、僕らは既存の劇場を、都度、自分たちの演劇のための場所に作り替える必要に迫られている。

それは大仰な装置を立て込むとか、劇場を奇抜な使い方をするとかでなく、出会いを通して、場を寿ぐことが出来るような場所として。

僕らの演劇が、舞台と客席との間にある場所を寿ぐことが出来るような、そんな体験を供することが出来るものであれば、と思うのです。

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

俳優と言葉について考えていて思い出した一冊。

もう4か月も前になる話だけれど、香港の行きだったか帰りだったかの機中で読み終えた、保坂和志の新刊。

 「記憶」は形として取り出せない。数値化ができない。

記憶や体験は個人の中にしまわれていて、しかも像として想起しようとするとどうしたって不鮮明でしかない。そういうものは勢い“主観的”と言われることになる。“主観的”という言葉には「あやふや」とか「他者と共有出来ない」とか「本当は存在しない」というネガティヴな響きがある。しかし“主観的”なものは決してあやふやなわけでなく、まして存在しないわけではない。物理的に検証可能な、“客観的”と言われている事象と別の仕方で存在している。(P51~P52)

という、ここで「“主観的”なもの」とされているもの、個人の中にしまわれているもののことをこそ、僕は昨日の日記で書きたかったのだ。

それも、小説について書かれてあることなのに、まるっきりそのままな演劇に移し替えて考えられるような感じで、この“主観的”なもの、日常レベルのコミュニケーションにおいては他者と共有することが至極困難なそれを出来るだけそのままに保持し続けられること、(ストックしていて出し入れできること、)が、よい小説・音楽・映画・・・の条件なだけでなく、よい俳優の条件でもあるのではないか。

体験というものは、“主観”であり数値化できない。しかし、“主観”であり数値化できないがゆえに、個人の生き方を左右する力を持っている。堂々巡りみたいだが、その力もまた数値化できない。

しかしあいにく私たちは日常生活という場で、そのような“主観”を伝えうる強度を持った言葉を話していない。日常のコミュニケーションの次元で求められているのは、脱色されて簡単に共通了解が得られる“客観的”な言葉でしかない。日常でのコミュニケーションで求められているのは、相手の心にずしんと響く重い球でなく、ぽんと受けてぽんと投げ返せる軽い球でしかない(お笑いみたいな軽ネタということでなく、日常のコミュニケーションでは新聞の死亡記事などに書かれる「重い事件」も、この球によって語られている。)

数値化はこの軽さの中での共通了解の手段のひとつであって、ずしんと響く重い球のためにあるのではない。しかし数値化があまりに広く深く浸透してしまっているために、私たちは自分一人の“客観化”されざる体験を自分自身に向かって思い返すときにまで、ついうっかり数字を出してきてしまい、そこで“主観”と“客観”を混同して、考えを違う方向に持っていかれてしまう。

時間をかけて考えを辿り直せばこういう仕組み(トリック)に気づくことができる。しかしふだんはつい簡単に受けては投げるをやってしまい―――自分一人の頭の中でもこれをやってしまうのだ―――、軽率にも“主観”が“客観”に対して説得力を欠くと判断してしまう。

これは数値化だけではない。“主観”はいろいろなものによって切り崩されている。“主観”と思われがちの「私らしさ」とか「私にしかできないこと」というような、自我に縛られたちっぽけな考えは、そのような時代に生まれた先のない感傷的な思考でしかない。これは“主観”とは別のことだ。

数値化を含む共通了解の誘惑に抗して“主観”を“主観”として保持しつづけ、それを一人でも多くの人が共有することのできる言葉や思考として練り上げること。小説・音楽・映画・・・・・・etc. の芸術はそのためにある。
(P53~P54)

ちょっと長い引用になってしまったけれど、この最後の一段。ここを書きなおすとつまり、

―――数値化を含む共通了解の誘惑に抗して“主観”を“主観”として保持しつづけ、―――通常の方法では決して言語化の出来ない、言語化の困難な、身体に堆積している記憶の澱のようなもの―――それこそ「体験」の豊かさそのものなのだが―――それを出来るだけそのままに、優れた俳優というものは、自分の発する言葉や、発話を含む行為・身体の運動をトリガーにして身体の上に直接、意識的に出し入れするものなのではないか。

と、そんなふうに考えている。

俳優と台詞との関係、

というか、距離感にいて。

昨日はA.C.O.A.を観ながら、観劇後の「トーク!」やその後のサロンで史朗さんの話を聞きながら、

それから今日はオリビエ・ピィを観ながら、ずっと考えてたことなんだけれど、俳優と台詞(言葉)との理想的な関係って、やっぱりどれだけ上手に喋れるか、ではなくて、どこまで(自分の喋ってる)それを“聞けるか”なんだと思う。

台詞を軽々に自分の言葉にしてしまわずに、しかしどれだけ丁寧に、且つ大胆に取り扱うことが出来るか。客席と舞台、俳優と観客との間に言葉をどれだけ丁寧に置いて、生かしていくことが出来るか。

こう書くと小難しく聞こえるかもだけど、それにはつまり、徹底的に“自覚”的に“無心”になることなんじゃないかと思う。

といって、俳優のするべき仕事のうち、発話に関わるそれの比率がどの位かというと、別に僕もそれほど高く見積もってるわけではありません。

けど、やっぱり大事なんだな、言葉が、いちばん。言葉というか、厳密には、大事なのは言葉に喚起される(俳優が自分の内側に抱え持ってる)イメージの大きさなんだけど。大事なのは。

いや、イメージという言葉では言い尽くせないな。

ビジョン、感覚、衝動、妄想―――それらが、漠然としたものではなく俳優の神経やからだの筋肉、何より呼吸や重心の位置に、具体的・実際的に関係する(している)ようなもの、意識的にも無意識的にも、身体に変化を及ぼすものとしての―――それを、考えています。

ノルウェー王国大使館

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駐日ノルウェー王国大使館 The Royal Norwegian Embassy, Tokyoのホームページ(ニュース・イベント)に公演情報を掲載いただきました。

http://www.norway.or.jp/news_events/2008/shelf+lille+eyolf.htm

shelf07 『Little Eyolf -ちいさなエイヨルフ-』 はノルウェー王国大使館の後援を受けています。また掲載ページには、2006年イプセンイヤーの際に制作された特設サイト内にある、戯曲「小さなエイヨルフ」の登場人物とあらすじ紹介、作品の背景などを紹介しているページへのリンクがあります。ご興味ありましたら是非ご一読くださいませ。

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