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Tumblrを始めました。

ブログをやshelfのホームページをレスポンシブなものに移行したくてずっと探してて、いろいろと選択肢があってかなり迷ったのですが、取り敢えずTumblrを始めてみました。

現在試運転中です。どっかのタイミングで、今まで使っていたブログから過去コンテンツなども(本当に日常の雑感はともかく演出ノート的なものとか、)順次、引越ししていこうと思っています。

こちらの旧いコンテンツはアーカイブとしてそのまま残します。
どうぞよろしくお願いいたします。

ファイル 1288-1.jpg

ysht.org
yasuhitoyano.tumblr.com
 

  • 2015.05.11 (月) 09:44
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  • Yasuhito YANO

何のために?

今日はもう一つ。僕の恩師にあたる、とある演出家の1人から、公演が終わって後に一つの問いを投げかけられました。引用すると、

テーマ(サルトル)も、そうだし、よく分からなかった。中身も、なぜ今これをやるのか? も、今これをやって目の前の観客に何を届けたいのも。矢野君は今回の公演を何のためにやったのかな?

これについてきちんと、人目につくところでちゃんと応えておきたいと思います。

根本的な問いです。回答することはとても難しい。けれど、突き詰めてしまえば僕はいつも、僕(ら)なりの“エンターテイメント”作品を作っています。お客様にはやっぱり観劇を楽しんで頂きたいし、ばかりか一緒にいろいろなものを感じたり、考えたりしたい。

shelfの公演に関しては、僕たちの基本姿勢は、観客に何かしら完成した“商品”を買って頂くのではなく、時と場とを共有した上で、他者との出会いを言祝ぎ、普段、煩雑な日常に埋没してうやむやになっっていたり通り過ぎてしまっている、人間の存在が(真実が)顕現する、そのような場を、私たちの演劇においては、観客と一緒に作りたい。と、常々そう思っています。

それは例えば、学校の語源がスコラ、即ち知識の追求という自由を意味していたように、エンターテイメントといっても狭義のそれではなく、いわゆる日常を“忘れる”ためのレジャーでもなく、日常の中に潜む深い裂け目、断裂のような、非日常を見下ろすような、そのようなことを楽しむ、考える、体感するということを劇場体験として、観客と共有したい。ということでもあります。

今回の作品に関していえば、サルトルの「出口なし」は、本来の仏語のタイトル「huis clos」が閉ざされた扉を指す言葉から転じて裁判用語で、「接見禁止」というのがあり、それについてはこのブログで演出ノートとして幾つかを書いています。

ysht.org|パノプティコンもしくはパンオプティコン(Panopticon)邦訳は一望監視施設について
http://theatre-shelf.org/diarypro/archives/1281.html

サルトルの戯曲『出口なし』が、地獄に落ちた人間の極限状態を描いているとして(じっさいにサルトルがそれを意図していたかどうかはともかく、)一読して僕がイメージした空間はしかし、“地獄”というよりかむしろ“現実”世界そのもので、しかもそれがディフォルメされたような言説空間であって、そしてもう一人の20世紀の偉大な思想家ミシェル・フーコーが、自著『監獄の誕生―監視と処罰』のなかで「主体化の装置」の一つとして転用、社会のシステムとして管理、統制された環境の比喩として用いたことで有名になった“パノプティコン(一望監視施設)”だった、という。

誰にとっても何ものでもないって、天国だろうか、地獄だろうか。
「ところであなたは、人間が、自分の主義どおりに生きていくのを、悪いことだと思いますか。」
(サルトル「出口なし」伊吹武彦訳)

いつまでたっても死んでいくだけ。
死ぬことが済む時は来ない。
「もう希望はない。けれども、僕たちはやっぱり以前なんだ。僕たちはまだ苦しみはじめちゃいないんだ。」
(サルトル「出口なし」伊吹武彦訳)

鏡がなくても自分の手足を見ることはできるけど、鏡がないと自分の顔を見ることはできない。それだけで自分の境界が薄れて漂うような感覚。
「あんたはあたしの顔まで盗んじまったんだ。あんたはあたしの顔を知っているのに、あたしは自分の顔を知らないんだ。」
(サルトル「出口なし」伊吹武彦訳)


この3つの台詞とメモ書きは、川渕優子が稽古中にfacebookに書きとめていたものです。「出口なし」を上演するに当たっては、僕もだいたい同じことを考えてはいましたが、それでも彼女の視点からの、彼女の演技を通して訴えられる切実な問いはいつもとても恐ろしく、かつ新鮮で、世界の見え方が変わるような感覚に陥ります。

[...]撮影に集中してしまったので的確な表現ではないかもしれないのですが
いつになく緊張感のある空気感でした
空間と光も闇が締まって心地よかったです
足や指先や少しの振動
それぞれの心のぶれやぶれないところの表現を
もっと集中して見たかったです。
永遠に交わらない地獄、誰からも理解されない地獄….。
恐怖に浸って考えてみたかった[...]

と、これはもうずっと10年近く一緒に仕事をしている札幌出身の写真家の原田真理さんが寄せてくれた感想です。

こちらは、僕の大切な友人がfacebookのshelfのページに投稿してくれた感想(?)。

「shelf観劇、雑感」

今日というかもう昨日ですね。初日を拝見しました。

最初に驚いたのは「二本立て」ということを劇場に着くまで知りませんでした。(『初期型』というタイトルなのかと勘違いしていました。すみません)

と、ここで普通ならば感想を書くのでしょうが、まず手が止まるのは「面白い」「つまらない」と、簡単に言語化して良いのかという問題です。

かなりサルトルと向き合わざるをえない企画意図なのでしょうか。

ここに何かを書くこと自体、あまり深く考えるとサルトルの掌中から抜け出せない「勘」が働きます。

「必要か」「不必要か」という感想の問いならば「必要」です。

なので何かに例えようと思うのですが、もともと上演時間が長い作品であることと、shelfと初期型の二本を観終えると、どうも「能」と「狂言」の関係に近いかなと、思い当りました。どちらがどちらとも言い切れないのですが、二本観ると、確かにそこには「必要な何か」がある公演でした。

「能」には基本的に主人公の幽霊などが、自分の完結した人生を追憶する型があります。
また「狂言」は「狂」と言いながらも、笑った素顔で「口語」を話し、幽玄の世界から、日常へと観客を呼び戻す役割があります。
通常「能」とセットで「狂言」は行われていたと、学生の時に習い、体験したのですが、それに近い感覚が呼び起されました。 

順番やカップリングなど、どこまでが企画者の意図なのか解りませんが、両カンパニーにとって、とても有用な二本立てでした。

観客まで含めかなりサルトルの思考に晒される体験だったと思います。

それ以上の事はただの「アンガージュマン」なのかも知れないですし、ただ何も書かなければ「Hell is other people」になるのかも知れません。
もしかして「まなざし」や「あらわれ」に「とらわれ」ているだけ、なのかも知れません。
 
どうやら矢野君の書いた「邦訳」辺りを手掛かりにすると、あまり疑わなかった方向から思考の手がかりは掴めそうです。

この戯曲を作品にする、その行為自体が、関わった人々で相互に問い詰めあう初日公演だったのだ、と感じています。

あと一日、昼夜二公演の成功を祈っています、ではないかな。
言い直します、成功を願っています。
では。

片山雄一


ファイル 1287-1.jpg

[...]中身も、なぜ今これをやるのか? も、今これをやって目の前の観客に何を届けたいのか・・・? も。矢野君は、今回の公演を何のためにやったのかな?[...]

きちんとお応えすると、取り敢えず、今、自分の立っている場所はこういうところです。

お楽しみ頂けなかったのは残念ですが、ご覧頂けて、問いまで投げかけて頂いて本当に嬉しかったです。またゆっくりどこかでいつか、きちんとお話しをさせて下さい。

ではまた。この度は遠いところから足をお運びくださり本当に有難うございました。
 

  • 2015.05.07 (木) 13:08
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  • Yasuhito YANO

思考するための体力、あるいは必要とされる深い呼吸について

新作公演を終えてようやく人心地ついた日を過ごしています。といって、来週の週末には、次回作「三人(姉妹)」(いかだ辺境劇場(主催/NPO法人らふと)参加作品)への出演者募集ワークショップ・オーディションがありますし、

6月には単身また渡欧してシビウに行く予定があるのでその準備を(プレゼン資料の作成とか)しなければだし、8月からまるまる一ヶ月以上、9月の上旬まで利賀村に長期滞在する予定なので、そんなにのんびりもしていられないのですが。

今回の「出口なし|Huis clos (1945) 」のクリエイションでは、人間の“業”についてずっと考え続けていました。もちろん一方で西洋の哲学・思想の系譜を理解するに“業”という、僕らにとってはなんとも特別な言葉を使って勝手に何かサルトルについて分かったように振舞うのだけは極力避けねば、と心に記してもいたのですが、

人は日々、いろいろの煩雑さに紛れて、流されてなんとなく生活しているけど、生と死はいつも隣り合わせで、すぐそこに深い断裂があったりする。しかしそれを、たぶんみんな見ないように、見ないようとにしながら人は生きているのだなあと。それ自体は、決して善いことでも悪いことでもなく。そんな、ささやかですが、確実な人間の何か大切なところに触れることが出来るような作品に仕上がったと思っています。

フェス自体はまだ折り返しですが、他の団体の作品を観ながら、思考の基礎体力、言葉を扱う呼吸の深さ、演出という作業の峻厳さについて考えさせられ、またそのような地力の“足りなさ”を痛切に感じています。己れについてはもちろん、フェスの参加作品を見ていて、本当に今、舞台芸術を取り巻く環境は無残で、まるでなっちゃいないなあと。

例えば、演出ノートについても、共通で10名の演出ノート(500字程度)がA3用紙一枚に書かれた当日パンフレットが劇場配布されているのですが、それがどれも読んでいてまるで詩(ポエム)か何かのようで、誰もきっといい歳したおっさんおばさんのハズなのに何とも夢見がちで、や、僕もかなり夢見がちでなかなかレアリストたれないという弱みは自覚しているのですが、それでもあれは、酷い。

言葉を扱うときに僕はいつも、深く潜ることの出来る力、というものをイメージします。そもそもじっさいに深い呼吸法を身につけていないと、思考も浅くなる。だからこそ僕は必ず稽古場では俳優と一緒にベーシック・トレーニングを欠かさないようにしているのですが、事実、舞台芸術の演出というものには、“身体で考える”ことの必要性というのがあって、直感とかインスピレーションというものも頭だけで考えててもなかなか生まれない。

と同時につかんだ直感やアイデア、閃きを手放さずにググッとそこを踏み込むというか、そもそも何か時間と空間を構成するという作業には、思考の体力、言葉を扱う身体の地力とでもいうものが不可欠で、閃きをつかんだその瞬間にそこをぐっと堪えて、呼吸を深くして長時間にわたって思考し続ける、掘り下げるということが、体力がないととても難しい。

換言すれば、閃きやアイデアを披瀝したり、解釈を講釈したり、ただ単に自分の好きなもの、個人的に面白いと思ったことばかりをだらだら並べ置くだけでは、それを演劇の演出とは絶対に呼べない。

そういう、いわば事物を正しく“考える力”が東京、日本で、演劇の世界だけでなく全体的に地盤沈下を起こしているのではないか? という強い危機感を持っています。

言葉、言葉とばかり言っていると、いやいや、舞台芸術とはけっきょく言葉に出来ないことを表現しているのだ、という反論が聞こえてきそうですが、そんなのは当たり前の大前提の話で、みんな言葉を軽んじすぎている。

本当に言葉に出来ない作業なのであればそれはスポーツに近い。というか、スポーツの感動を超えられない。僕は自分の演劇で、例えばウサイン・ボルトの100mの感動を超えたい。(ちなみに僕は、ボルトの走りを見るともう、感動して、全身が泣き出しそうになります。)

演劇はやはりどこかで、発語する身体と言葉、物語、歴史や社会という言葉で構成されたものと人との関わり方や摩擦や断裂を描くのでなければ、スポーツには勝てないと僕は思うのです。
 
 
ファイル 1286-1.jpg
 

ウサイン・レオ・ボルト(Usain Leo Bolt) |1986年-
ジャマイカの陸上競技短距離選手。人類史上最速のスプリンター。オリンピック陸上競技100m、200m、4×100mリレーの3冠を2大会連続で達成し、通算6個の金メダルを獲得。世界陸上競技選手権大会の200mと4×100mリレーを3連覇し、100mとの3冠を2度達成し、最多タイとなる通算8個の金メダルを獲得。100m、200m、4×100mリレーの世界記録保持者。

  • 2015.05.07 (木) 12:41
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  • 俳優あるいは演出のための方法についてのメモ
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  • Yasuhito YANO

「出口なし|Huis clos (1945) 」@d-倉庫、終演しました。

おかげさまでshelfの2015年度最初の公演、久しぶりの新作初演「出口なし|Huis clos (1945) 」@d-倉庫、無事に終えることが出来ました。劇場まで足をお運び頂いた皆様、そしてスタッフや俳優たちには、感謝の言葉も見つからないくらいです。

有難うございます。

作品については、ことのほか多くの方に楽しんで観劇して頂くことが出来たようで、聞き及ぶ限りではそのほとんどのお客様にご好評を頂くことが出来ました。

嬉しいです。本当に嬉しい。

長くshelfを見続けて下さっている方からは、shelfの作品の変化と、今まさに結実しつつある成果を見届けた、その場に立ち会うことが出来たことが大きな歓びだった等とても励みになるご感想を頂き、また初めてご覧頂いた方にも、shelfが今後どのような活動を行っていくのか? どのような表現を為し得て行くのか? という期待を少なからず持って頂けたようで、本当に望外の歓びです。

稽古場でいっぱい苦労をした甲斐がありましたw や、もちろん稽古場は、苦労もありましたがとても充実した日々でした。毎日のように発見や気づき、確信を持てるような瞬間がたくさんありました。

改めてみなさんにお礼を申し上げたいです。本当に有難うございます。そして今後とも矢野とshelfを、よろしくお願いいたします。ちょっとだけ休んで、また走り始めます。

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千秋楽にご来場下さった蔦森さん。ふだんは記念写真的なものはあまり撮らないのですが、とても嬉しくてつい。
 

  • 2015.05.06 (水) 15:38
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  • Yasuhito YANO

「出口なし|Huis clos(1945) 」shelf新作、世界初演。

現代劇作家シリーズ5:J-P.サルトル「出口なし」フェスティバル 参加作品「出口なし|Huis clos(1945) 」shelf新作世界初演、無事に幕を開けました。撮影は原田真理さん。闇の深さが美しいです。

本日二日目、早くも千秋楽です。本日は、14:00~/19:00~の二回公演。上演時間は2本立てのもう一つのカンパニー初期型とあわせて2時間弱です。当日券もございます。お時間がございましたら、ぜひ。

皆様のご来場心よりお待ちしております。


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photo / Mari HARADA

  • 2015.05.05 (火) 09:27
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  • Yasuhito YANO

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