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COLLOL 『フリキル』 @恵比寿site

9/5(月)ソアレを観劇。面白かった。COLLOLは何度も観ているけれど今まで見た作品のなかでは出色の出来だったと思う。

やもすれば散漫な印象になりかねない柔らかい身体、弱い身体を、彼女たちは徹底して舞台上に載せることを試み続けてきていたのだが、それは逆説的なことなのだけれども訓練され集中した身体こそが舞台上に現象出来るという、けっきょくはその一点において、今まで彼女たちがぶつかっていた壁を突破していたように思う。

また4人という少ない出演者数功を奏していた。劇作家演出家田口アヤコ自らがその中に身を置いて、パフォーマーとしてアンサンブルをコンロールする。いわば客観的な演出家不在のダメな小劇場演劇になりそうなところを、共同演出の“音響家”江村桂吾が、俳優の発語も含めた音に徹底して現場でチューニングを図ることによって、(この会場は残響が酷いのだ。にもかかわらず)非常に心地よい空間を増築していた。たまさか前日に見ていた、地点の実験公演『トラディション トライゾン』の演出家“降板劇”という仕組まれた実験の結果、ダンサー山田せつ子と俳優阿部聡子の途方もないプロジェクトを連想した。

勿論、佐々木敦氏がツイッター上で指摘している、「岡崎京子や川上弘美からの引用を含むコラージュ&フラグメンタルな構成なのだが、全体にテキストレヴェルで、発語と失語、饒舌と沈黙の関係を、ちょっと浅く見積もっているように僕には思えた。わからせる技巧というものがあり、わからないということの誘惑がある。そのどちらにも至らぬ甘さを感じた。」というものは、分からないでもない。

しかしその時間と空間のなかで、対話の主体がスライドし交錯し、収斂していく。繰り返される台詞。途切れる台詞。重なる台詞。誰と誰が、いったい何について喋っているのか分からなくなるのに、ときにふわりと対話が浮かび上がって来たり、発語の衝動がガツンとぶつかってくる心地よさ。

舞台上における対話の不可能性について。あるいは、「私」と名乗る何者か=俳優についての疑義。そのこと思考する演劇であるという点において、ちと大袈裟なことを書くかもしれないが、ベケットから始まる現代演劇の前衛の系譜、日本ではチェルフィッチュや地点の仕事の系譜につなげて考察すると、田口アヤコの劇作については、面白いう観察結果が得られるのではないかと思った。

一点難を言えば、交錯し収斂していくテキストが私とあなたの男女の問題に帰結する点が、残念と言えば残念だった。途中、「私は(生き)残った妻です。」「私は(生き)残った母親です。」等々の台詞の連なりを聴いたとき311以降の現状を連想させただけに、(その瞬間はかなりぞっとした。)難しい注文かもしれないが、田口アヤコには社会性を持ったテキストにも今後挑んでいってほしいと思う。個を描きながらもそれは可能なはずだ。パフォーマンスの在り方として一つ壁を突破したのだから、次は劇作家として、さらなる壁を突破していって貰いたい。ずたぼろになりながら。

いずれにしても同世代の作家の仕事として、たいへんな刺激を受けた。今後も見続けて行きたい。

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COLLOL『フリキル』
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  • 2011.09.06 (火) 10:49
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  • Yasuhito YANO

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