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「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

俳優と言葉について考えていて思い出した一冊。

もう4か月も前になる話だけれど、香港の行きだったか帰りだったかの機中で読み終えた、保坂和志の新刊。

 「記憶」は形として取り出せない。数値化ができない。

記憶や体験は個人の中にしまわれていて、しかも像として想起しようとするとどうしたって不鮮明でしかない。そういうものは勢い“主観的”と言われることになる。“主観的”という言葉には「あやふや」とか「他者と共有出来ない」とか「本当は存在しない」というネガティヴな響きがある。しかし“主観的”なものは決してあやふやなわけでなく、まして存在しないわけではない。物理的に検証可能な、“客観的”と言われている事象と別の仕方で存在している。(P51~P52)

という、ここで「“主観的”なもの」とされているもの、個人の中にしまわれているもののことをこそ、僕は昨日の日記で書きたかったのだ。

それも、小説について書かれてあることなのに、まるっきりそのままな演劇に移し替えて考えられるような感じで、この“主観的”なもの、日常レベルのコミュニケーションにおいては他者と共有することが至極困難なそれを出来るだけそのままに保持し続けられること、(ストックしていて出し入れできること、)が、よい小説・音楽・映画・・・の条件なだけでなく、よい俳優の条件でもあるのではないか。

体験というものは、“主観”であり数値化できない。しかし、“主観”であり数値化できないがゆえに、個人の生き方を左右する力を持っている。堂々巡りみたいだが、その力もまた数値化できない。

しかしあいにく私たちは日常生活という場で、そのような“主観”を伝えうる強度を持った言葉を話していない。日常のコミュニケーションの次元で求められているのは、脱色されて簡単に共通了解が得られる“客観的”な言葉でしかない。日常でのコミュニケーションで求められているのは、相手の心にずしんと響く重い球でなく、ぽんと受けてぽんと投げ返せる軽い球でしかない(お笑いみたいな軽ネタということでなく、日常のコミュニケーションでは新聞の死亡記事などに書かれる「重い事件」も、この球によって語られている。)

数値化はこの軽さの中での共通了解の手段のひとつであって、ずしんと響く重い球のためにあるのではない。しかし数値化があまりに広く深く浸透してしまっているために、私たちは自分一人の“客観化”されざる体験を自分自身に向かって思い返すときにまで、ついうっかり数字を出してきてしまい、そこで“主観”と“客観”を混同して、考えを違う方向に持っていかれてしまう。

時間をかけて考えを辿り直せばこういう仕組み(トリック)に気づくことができる。しかしふだんはつい簡単に受けては投げるをやってしまい―――自分一人の頭の中でもこれをやってしまうのだ―――、軽率にも“主観”が“客観”に対して説得力を欠くと判断してしまう。

これは数値化だけではない。“主観”はいろいろなものによって切り崩されている。“主観”と思われがちの「私らしさ」とか「私にしかできないこと」というような、自我に縛られたちっぽけな考えは、そのような時代に生まれた先のない感傷的な思考でしかない。これは“主観”とは別のことだ。

数値化を含む共通了解の誘惑に抗して“主観”を“主観”として保持しつづけ、それを一人でも多くの人が共有することのできる言葉や思考として練り上げること。小説・音楽・映画・・・・・・etc. の芸術はそのためにある。
(P53~P54)

ちょっと長い引用になってしまったけれど、この最後の一段。ここを書きなおすとつまり、

―――数値化を含む共通了解の誘惑に抗して“主観”を“主観”として保持しつづけ、―――通常の方法では決して言語化の出来ない、言語化の困難な、身体に堆積している記憶の澱のようなもの―――それこそ「体験」の豊かさそのものなのだが―――それを出来るだけそのままに、優れた俳優というものは、自分の発する言葉や、発話を含む行為・身体の運動をトリガーにして身体の上に直接、意識的に出し入れするものなのではないか。

と、そんなふうに考えている。

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