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“存在する”ということ。

昨日の稽古はなかなか有意義な時間を過ごせた。全然前進していないけど、濃密な時間だった。しかしそろそろ時間が足りなくなってきてる気配。巻いていかなければ。

あ、今週日曜に通し稽古やります。時間未定ですが興味のある方はご連絡ください。見学者募集中です。先着…10名は入りきれないかな?

ノッキングしているのは、俳優が舞台上で先ず、ただ単に“存在する”ということが出来てないことによる。ちょっとしたきっかけで変わるものなのか、染みついてしまってどうしようもない「見せる」という自意識が邪魔をしているのか。“面白いこと”をしてほしいわけじゃないんだよな。役に縋らないでほしい。ちょっと殻を壊したい衝動にかられている。でもデリケートな作業なんだよそれは。非常に。

ともかくそれが理屈じゃなく感覚的につかめないと、作品の中での役割も担えないし、舞台の増幅装置としての機能も果たせない。関係も築けない。

先ずは一人で、空間と向き合うこと。自立すること。

勿論、俳優がただ単に存在する。ための世界のルールの提示も、演出家は怠ってはならないのだが、それは鶏と卵のような関係な気がしている。最近。

分かっていることは、ともかく邪魔なのは余計なところにこびりついた自意識なのだということ。何もしなくていいんだ。ただ、そこに存在してくれればいい。邪魔な自意識を捨てたとき初めてその俳優の輪郭がくっきりしてくる。他者への働きけか可能になる。

喪に服すとき

Humbert Humbertの「喪に服すとき」。アイルランドの歌 Mo Ghile Mear(モ・ギレ・マー)のカバーだそうです。今回のクリエイションの初期段階で、川渕が見つけてきました。ちょっと直接的なので劇中で扱うことは断念したのですが、モチーフの一つとして、座組みんなで共有しています。使わないけど共有する。こういう作業も、劇作を深める行為になるのでは、と信じています。

shelfの方法論

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構成台本が出来て、俳優もみんな?台詞が8割方は入って、今、稽古場では立ち稽古をしながら動きのネタ出しをしたり関係性の構築を行ってます。

関係性の構築といっても、shelfの場合、“所謂”対話があって、その関係を深めるというのではなく、そこで語られている自分以外の他者のテキスト(台詞)からインスパイアされる動きだったり、その関係を増幅する動き(ムーブメント)だったりを全体で作っていきます。

というのも、喋っている人以外の人間も含めて、舞台上に俳優が、常に居続ける仕様なんですね。仕様というよりか、それがshelfのいつもの作劇法なんです。

ここではまず、喋っている人の“語り”の強度が問われるのですが、同時にサブテキスト的に7人の(今回は)関係がドラスティックに、70分の間に変化していかなければならない。

というかそうした方が面白い。し、更には、語りで語られる内容を、俳優が耳を目を触感を空気を身体で受け止めて、影響を受ける、あるいは及ぼす。という作業を通じて、テキストレベルで語られる起承転結や序破急とは別のレイヤーで、それと異なるドラマツルギーを獲得出来ないか、ということに今、ここ数年、真剣に取り組んでいます。

やってみて、何度も繰り返して、それでも結果的に無駄になってしまうような作業も多いけど、その無駄が養分となって新しい芽が出るような、無駄をそぎ落とした結果のシンプルさ=想像力の働くかたちを獲得できるよう、徹底的に体を使っています。よくshelfはあまり動かない、とか自分たちでもここは全力で立ち止まっているんだ。とか、スタティックな芝居構成をすることが多いのですが、今回は体を使える俳優が多いので、いつもとはまたちょっと違ったテイストの作品になりそうです。

本当に豊かな稽古場です。全員が、振られた振付や役割を演ずるのではなく、演出のディレクションのもとに頭と感覚をフル稼働させて時間と空間を紡ぎだしていく。

畢竟、話し合いの時間も、すごく長い。です。稽古場にいる時間は、出来るだけ身体を使う作業をしたいので、結果、話し合ってコンセンサスを取ったりアイデアを出し合ったりする時間は、稽古後に零れることが多い。といって外で立ち話をするのもアレなので、どこか飲食店に入ることが多い。

さいわい稽古場のある経堂には遅くまでやっててしかも安い! 飲食店が多いので、重宝しています。中華屋とか、居酒屋とか、そこそこ食べて飲んで一人当たり1,000円ちょっとで2時間近くミーティングが出来る。ここで話し合うこともとても重要というか、凄く有意義で、豊かな交感があります。だいたい同じ食べ物を食べて、飲んで、ってそれだけで、ある種の連帯感が生まれますよね。そうでもないかな(笑)

それにしても舞台創作って、素晴らしい交流だと思う。身体と言語をフル稼働させて他者と関わる。この濃密な交流を、劇場でもぜひ観客の皆さんと共にしたい。

舞台作品は、稽古場では絶対完成しません。現場に入って、観客席に観客を迎えて、初めて完成する代物です。それは一般に言われている「見ている人がいないと・・・」というレベルではなく、観客と俳優の呼吸や体温、といった生理的反応も含めて、俳優が本番を迎えて観客から受け取るものを受け取って、初めて新しく気づくことがある。発見することがある。考えるべきことが生まれる。そこでようやく作品が作品として成立するのです。

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写真は行きつけの中華屋の逸品、卵とトマトの炒め物。ちょっと最近個人的にハマッてます。美味!

構成第三稿作成。

(いつも忘れるんだけど、劇作家と俳優とどっちが偉いか喧嘩して、カフェでおもむろにそこに在ったメニューを読みあげて聴衆を泣かせて劇作家を黙らせたって逸話のある女優さんって、どなたでしたっけ。)

というわけで構成台本第三稿作成。

さて。今回扱っているテキスト、以前にも何度か書いているけど、祝辞、評論、エッセー、戯曲、小説など多岐にわたったテキストを使っているので(構成が本当に大変でした。今もちょこちょこ直しているので大変です。)ある程度経験を積んだ俳優はともかく、若い俳優が、“役”という掴みどころががなくてかちょっと制作作業で戸惑っている様子。

しかしこういう作業に臨む時、問題は、役があるかないかじゃないんだな。そこに先ず、ストンと存在できるかどうか。そしてそのうえで、テキストと戯れたり、テキストに追い詰められたり、テキストを“使って”、“他者”とコミュニケートしてほしい。それだけなんだ。といってそれが難しいんだけど、

どうしてもテキストの比重が高くなってしまってテキストの大海におぼれるというか、非常に当惑しているみたい。(これは何かしかけを考えないと。演出だ、演出。演出の仕事だ。)

でもやっぱり不自由に思うのは、繰り返しになるけど、雑多なテキストを構成している台本を扱う場合、いや、本当はそうじゃなくて普通の戯曲を演ずるときにでも同じことが言えるんだけど、現代演劇の一領域で行われている作業では、俳優は“役”に頼ることをしてはいけない。というか、できない。

ドキュメンタリー演劇? 違う違う。そんなコムツカシイことではなくて、単に、これは言い古された言い回しかもしれないけど、“役柄”に頼っちゃ駄目なんだ。自分で、作品の時間構成、空間構成の中での“役割(ロール)”を見つけなければならない。演出の提示した構成台本、コンセプトや演出ノートからインスパイアされたものを自分で持ち込むしかない。つくづくしんどい作業を強いていると思う。

小屋入りまであと10日間。ここからが勝負どころだ。

自由に、より自由に。制約されたなかでこそ獲得出来る自由を勝ち得て欲しい。

コメント一覧

| 矢野靖人 url (05.15 04:26) 編集・削除

上記の女優の逸話。フランスのサラ・ベルナールの伝説的エピソードではないか? というコメントをツイッターで頂きました。そうだった気がします。しかし凄いエピソードですよね。

有難うございます!

構成二稿

荒木まやさんにいろいろとアドバイスをいただいて、みんなで議論をして、構成を大幅変更。といっても切ったり足したり順番入れ替えたり、という構成作業で、扱うテキストは確定しているのだけれども。

今回、演説、評論、小説、戯曲、エッセー等など多彩なテキストを扱っています。さて。これが一つの舞台作品の言説にまとまってくれるか。今日も稽古場は読み、読み、ひたすら読みの予定です。読みの段階から演出ガンガン入れるけどね。

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