■演出ノート(当日パンフレットより)
鈴江俊郎の代表作 『髪をかきあげる』 (1995年)から 「蛍のいない川辺」 で蛍を探す夫婦のシーンと、一人芝居 『私、うれしい』 (1993年)から台詞を一部抜粋し、 『私、うれしい』 の主人公を主軸に一つの作品に再構成しました。
本当は中期戯曲から何篇かを抜粋して、と思っていたのですが、最終的に初期のこの二本だけの台詞を使うことになりました。一部、どちらのテキストでも使われていない台詞もあります。短いシーンですが、稽古場で俳優たちと創作したシーンです。
今回の作品のモチーフは 「喪失」 です。
大切なものを失った人。失ったものから逃れられずにいる人。失ったことで何かを得る人。
作品を通して考えたかったのは、これから先私たちは生きていくうえで数多くのものを失っていく。その喪失することを決定づけられているものについて、今のうちにもっともっと思いを致さないといけないのではないか。あるいは僕らは今既に、知らず知らずのうちに大切なものを喪失しているのではないか。ということです。
或いは失うということは人間にとってどういうことなのか。
それにしても、今回、久しぶりに現代口語のテキストと向き合って、だいぶ手こずりました。近代戯曲、古典戯曲と異なるのは言葉の冗長率が非常に高いということです。言葉にノイズが多いんですね。
具体的には、一見無駄に見えるような言い淀み、言い間違い。口をついて思わず発してしまう言葉や思いに言葉が足りなくてつい付け足してしまう余分な言葉などが沢山あって、その間を埋める 「え」 とか、 「あ」 、 「や」 みたいな、その言葉それ自体では 「意味」 をなさない語句が、口語ではかえってとても重要な価値を帯びてくる。場合によっては敢えて 「あ、」 「え」 とかって語句を戯曲に足したりして作業を進めました。
もちろん言葉の背後にある人間の意識の流れや感情の起伏、それに伴う身体の変化などは、近代戯曲を演じる場合のそれと基本的には同じで、俳優の作業はそれとあまり変わらない。はずなんだけれど、だけれどもやっぱりパフォーマンスの質感というか、演技の手触りがだいぶ違う。演出としても現代口語を扱うのは久しぶりなので、(といっても厳密な話をすると鈴江戯曲は所謂「現代口語」ではないのですが、)いろいろと戸惑いつつも、そんな作業を楽しんで作りました。
演技をナチュラルに、日常と同じように振る舞えばいいかというと全然違っていて、そんなものは面白くもなんともない。そういう演技はテレビや映画などの映像に任せておけばいい、ということでやっぱりある種の舞台表現ならではの演技の様式性をどこまで獲得できるか。という問題と格闘しました。
日常に近いけど、日常とはまた違った手触りの時間の流れる作品。shelfが今回目指したのはそんなささやかな作品です。
1時間弱の小編ですが、最後までごゆっくりお楽しみください。



撮影/新井亮
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