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shelf 名古屋公演 「構成・イプセンーComposition / Ibsen」 公演レビュー

☆2006年12月1日 19:00~ 名古屋七ツ寺共同スタジオ
☆演出:矢野靖人/出演:shelf


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 『幽霊』とは、何だろうか?私たちの生きるこの時代における『幽霊』とはいったい、何者なのだろうか?


 客電がついたままの場内。うす暗い舞台上には、5人の役者たちがすでに存在していた。イスに腰かけたり、膝を抱えたまま顔を伏せたりしているが、彼らはピクリともしない。三方向を壁に囲まれた出口のない空間…舞台上には異常ともいえるような張り詰めた空気が流れ、白い衣装を着た女/ノーラ(川渕優子:shelf)が足先を舞台上からわずかにはみ出し座っていることで、舞台空間は外とのつながりを辛うじて保つという奇妙さを漂わせている。静謐なはじまりであった。

 舞台中央には簡素なイスが一客置かれ、そこには愛のない結婚を否定しながらも自らは立ち上がることの出来なかったひとりの未亡人、ヘレーネ・アルヴィングが座っている(三橋麻子:Ort-d.d)。タッチライトに浮かぶ身体の輪郭と、自らの影に沈んだ彼女の顔が一瞬、不気味に微笑んだように見えたあと、彼女の中に同じくイプセンの作品『人形の家』の主人公・ノーラがオーバーラップした。無機質な舞台空間がアッという間に古びた居間に転じる。そこでは彼女と子供たちの弾むような会話が展開するのであるが、子供たちの姿は見えない。彼女の声の抑揚によって、観客は子供たちの存在を感じはするものの、そこに実体はないのだ…アルヴィング夫人の中に棲みついたノーラが、ここで既に過去の遺物として描かれているのだろうか。自らの正義と、真実を求めて愛と家庭(子供を含み)を捨てた女の影が、彼女の中に存在していることが興味深い。

 ト書きが読みあげられ、静止していた人物たちが起動した。「…マンデルス、牧師。」そうコールされたマンデルス(木母千尋:第七劇場)のリアクションはコミカルだが、非常に示唆に富んでいる。彼は自分の名が呼ばれると目覚めたように顔を上げるのだが、「牧師」と使命を受けると驚いたように自分を指さし、そして了解するのだ。これは、この物語の悲劇的な要素の核ともなるべきポイントのように私には思われる。人間は自らの意思で、この世に生まれてくることもなければ運命なるものの存在を知るすべを持たない。私たちの多くはマンデルスのように、無自覚に『自ら』を受けいれていくが、疑問のない受容がどれほど悲劇を生むかということ、この意識が本作品の大きなテーマにもなっていると感じたからである。

 本作品は多くの『異和』を含んでいる。含んでいるというよりも、むしろそれらによって仕組まれた虚構のイリュージョンだといえるかも知れない。

 アルヴィング夫人の息子、オスヴァル・アルヴィング(凪景介:Ort-d.d)の登場などはまさにそれを体現している。彼は舞台上に、観客の見える場所にはじめから存在していたのであるから、その人物が虚構の中の虚構に登場するにはこういった切り口が必要なのかも知れない。静かに舞台奥から歩をすすめ、右手からアルヴィング夫人とマンデルスが会話をしている居間に入って来るのだが、突然大声をあげ、アルヴィングたちの前を転がりながら左手に移動する。立ち上がっての彼のセリフは「失礼――書斎の方かと思ったもんで。いらっしゃい、先生。」というものである。大声で叫び、目の前を転がったあとで「失礼」も何もあったものではない、本来ならば。こんな異和がこの虚構空間では常套ルールとして場を支配し、観客はそのルールを驚きの中でキャッチしながら作品へと入っていく。見えていないもの、見えているもの、見えるはずのないもの…それらが、音楽の旋律にも似たセリフの、独自な解体によって提示され、観客はこういった状況の中で『幽霊』の登場を待つことになる。非日常では説明不可能な存在について、この作品はそれを説明可能にするシステムを持ったといえるだろう。『幽霊』とは何か、冒頭のこの問いがあらわになっていく。

 「わたしたちには取りついているんですよ、父親や母親から遺伝したものが。でもそれだけじゃありませんわ。あらゆる種類の滅び去った古い思想、さまざまな滅び去った古い信仰、そういうものもわたしたちには取りついてましてね、そういうものがわたしたちには、現に生きているわけではなく、ただそこにしがみついているだけなのに―――それがわたしたちには追い払えないんです。」アルヴィング夫人は作品の中で言う。ここで言われている遺伝とは、この作品が発表された時代に1つの衝撃となって受け止められた性病という点への指摘だけではないだろう。現代的な事象に例えるなら、幼児虐待を受けて育った子供のその後や、自殺者を親に持つ子供の未来といったことに置き換えることも可能だ。古び去った思想や信仰への指摘だが、これは(私個人の考えにもよるが)それを享受する人間の側の形骸化である。マンデルスが、自分に牧師という天職が担わされたとき、なぜ何の疑問も苦悶もなく受け入れたのかということと同じである。思想そのものは時代を反映するという点でいえば、確かに古くなる存在であることは否めない。しかし、もっと問題なのはその思想に対する私たちの側の意識ではないだろうか。与えられたことに対して自問自答を忘れ、そこから派生する問題への意識、また感謝を忘れた者に、真のいのちなど存在するだろうか?これは思想の受容だけにとどまらない。『生きる』ことを問い、苦悶し、立ち上がろうとしない人間への警鐘であろう。舞台中央で『幽霊』を恐れるアルヴィング夫人はすでに、生きながらにして『幽霊』と化しているのだ。

 ラストシーン近く。今や、二人きりとなったアルヴィング夫人とオスヴァルは夜明けを迎えながら、徐々に明るさを取り戻しつつある居間にいる。窓からはキラキラと輝く氷河と山々の峰が壮絶な現実をあざ笑うかのように見え、先ほど出て行ったはずの異母兄妹のレギーネ(佐直由佳子:第七下劇場)が、アルヴィング母子の様子を腕組みをしながら見ている。異母兄の、犠牲者としての最期を見つめる目はどこか他人事のようでもあったが、いよいよ兄オスヴァルが発作のあとにグッタリと子供ようになり、母アルヴィング夫人が絶叫するシーンでは悲しげな表情を浮かべた。それは今なお、止むことなく続けられる無自覚な受容と、自ら立ち上がろうとしない私たち自身、その犠牲となって死んでいく何か…そんなものを見つめる視線と重なる気がした。演出家の矢野靖人がフライヤーで観客に約束した『圧倒的なカタルシス』が、もしかしたらここに成就していたのかも知れない。


   文責/Arts&Theater→Literacy:かめだけいこ

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コメント (3)

伊藤俊輔:

思ったよりスタジオ内は狭い。10人ぐらい座れる階段席が5列。千秋楽の公演には30人ほどが来ている。着席して早々目に入ったのがすでに舞台上に控えている5人。下手奥の椅子に座っている女性。足元には銀のじょうろがある。中央奥にうつむいて椅子に座っている男性。上手奥に座る女性。トランクのようなものを携えている。舞台の中央の丸いサイドテーブルとその脇に椅子に腰掛けている女性。薄暗い照明の下では判りづらいがみな緑を基調とした衣装を纏っている。そして下手の一番手前には白いさらりとしたワンピースを着た女性がひざを抱えて蹲っている。みな無表情、石の造り物のようだった。すでに彼らは演技に入っている。私は敢えてパンレットは読まないことにした。
ノルウェーの戯曲家、イプセンの『幽霊』を『構成・イプセン』と題しているこの公演。あらすじはともかく衝撃的だった。二つの価値観の衝突。一つはいわゆる道徳観、良きこととしてみなに教えられる、一般には常識的に考えて到達する善。もう一つは個性の解放、生きとし生けるものはみな衝動を抑えきれないという本能、いわば性の肯定。
梅毒という設定だったオスヴァルだが、私の目には古い因襲とそこから解放された近代的な思想の狭間で押し潰されそうになって苦しむ一人の青年と感じられた。自分が経験した相反する二つの価値。否定したいが否定しきれない矛盾した現実を何とか打開しようと苛み、そして壊れてゆくその生き様。病気ではない。彼は二つの価値観に押し潰されて行くのだ。そして彼はその二つの価値観のどちらが正しいかわからず、ただ押し潰され、死に行くのだ。
開演からずっと蹲っていた白い女性、パンフレットには『女/ノーラ』と書かれていたが、私には最初は『あれ』がこの戯曲名である『幽霊』その人であるように感じられた(繰り返すが私は事前にパンフレットを見ていない)。だが台詞にあった『古き因襲と言うもの』と言う意味での幽霊ではない。アルヴィング婦人がマンデルス牧師に対し『自分自身が説いている言葉、神の教えや習慣としてのあるべき姿、あなた自身も守れているのかしら?』と、古き因習の伝道師たる牧師が現実的には近代的な思想、夫人の言葉借りれば不道徳の虜になっていることを批判するシーンがある。ただし強く指摘するに留まり、結局夫人自身は二つの価値について何一つ判断しない。二つの価値があることを事実として認めながらも判断することを放棄しそして、自身は古き因習にならい行動している。それに対し私の思うところの『幽霊』とは価値を判断すること、つまりいずれかを認め、そして残りを断罪する、『自分自身の意思』そのものである。この舞台ではノーラは常に価値判断を求め続ける『自我』として位置づけられた存在、雰囲気のようなものではないだろうかと感じられてならない。
都会での華やかな生活を望みオスヴァルを捨て旅立ったレギーネ。ただ因襲に囚われ偽善に終始するアルヴィング婦人。道徳者の仮面を被り続けるマンデルス牧師。病に倒れたオスヴァル。そしてノーラ。彼らを用いて矢野が表現したかったものは何であろうか。観劇から丸2日。私はまだ考え続けている。再構成されたイプセンの戯曲が現代に何か問いかけているように思えるのは私だけだろうか。
壊れる、壊レル、こわレル、コワレル。音を立てて。
瓦礫の下から産声を上げるのはナニモノ?

かめだけいこ:

伊藤俊輔さま:

ご投稿、ありがとうございます!

>一般には常識的に考えて到達する善。もう一つは個性の解放、生きとし生けるものはみな衝動を抑えきれないという本能、いわば性の肯定。

そうですね、正に葛藤のエネルギーに満ちた空間でした。

>二つの価値があることを事実として認めながらも判断することを放棄しそして、自身は古き因習にならい行動している。それに対し私の思うところの『幽霊』とは価値を・判断すること、つまりいずれかを認め、そして残りを断罪する、『自分自身の意思』そのものである。

この感覚、おもしろいですね!私は『幽霊』を『形骸化した人間の受容』だと感じたのでしたが、なるほどです。

>ノーラは常に価値判断を求め続ける『自我』として位置づけられた存在、雰囲気のようなものではないだろうかと感じられてならない。

作品中、ノーラはマンデルスやアルヴィング婦人のセリフを突然肩代わりしたり(取って変わるという方が正しい?)オスヴァルの背後から彼の両肩をガッと掴んで彼のセリフを叫んだりしました。・・・ココは歴史を生きてきた人々の成し遂げ得なかった遺志のようにも思えますし、アリヴィング婦人が不安そうにノーラに同意を求める視線を送ったりするところも、伊藤さまのおっしゃるノーラが幽霊そのものであるとの感覚と重なるように思います。

 伊藤さまのご投稿によって、私が書き切れなかった光景が浮かび上がりました!
 本当に、ありがとうございます。また、どしどしご投稿下さいませ。

角井方浩:

三日間を通して幽霊を観劇させてもらった感想としてまず、役者の身体が、素人目で見ても際立って映ったことが思い出される。
アルヴィング婦人の肘掛け椅子のように見せる手の固定や、レギーネがオスヴァルの腕の支えから落とされた動き、シャンゼリゼを歌うノーラの佇まい、大声で歌い終えたマンデルスが書類を撒き散らす仕草、それらの瞬間瞬間だけを取り出しても舞台が成立する程に完成されていた印象が残っている。
と書いたものの、「完成」なんて言葉を使っていいのだろうか。ただ画として美しかった。


構図だけを考えても面白かった。
アルヴィング婦人は最後の最後に屈みこむまで、ずっと舞台の中心に位置する椅子に座ったまま。その(客席から見て)常に左半面にレギーネ、右半面にマンデルスが位置している。この二人の位置関係からだけでも、因襲と自由の関係性を考えることができる。
中心に位置するアルヴィング夫人を、レギーネのような奔放さを内に秘めながらもマンデルスのように後天的な慣習や理性によって感情を制御している、二つの時代の特異点における人間として両極に縛られ動くことのできない存在、と考えると、躊躇ったまま迎えるラストシーンは暗に示唆され続けていたとも言えよう。

二日目のアフタートークで現代美術作家の水谷イズルさんも似たようなことを言及していたが、劇中や劇の始まる前の板ツキの状態からですら、人物同士が向き合った状態で固定されることは思い出せる範囲ではほぼ無く、それぞれの視線や位置、位相のブレによって人物同士の関係性が浮彫りにされていた。

関係性という言葉を使うと、三日目のアフタートークで演劇批評家でもある大岡淳さんが言っていた、「あえて今、何故メロドラマのような時代がかった芝居をこの現代に持ち出すのか」というような疑問が浮かぶ。
機会があれば演出の矢野さんに直接聞いてみたいと思うけれど、その問に対して今回の劇を観た自分の個人的な印象と照らし合わせて考えると、「現在、完全になくなったものを表現するためには、それがなくなる瞬間の時代を再現する他に手段が無かったから」なのではないかと思われた。
なくなったものというのは、血縁や他人の間での正常と呼べる(これこそ複雑だけど)関係性だったり、幽霊にも喩えられている古くからの規範や因習であったり。それらは現在喪われていて、それを認識するためには、時代の移る瞬間であった百数十年前のテキストに頼らざるを得ないのではないか、ということだ。

しかし実際は、現代劇の古典と呼ばれるような作品の方法論まで立ち返って、分解・再構築する必要性があっただけなのかもしれない。少し妄想を膨らませてみた。


構図の話しから脱線してしまっていた。
完全に固定されたアルヴィング夫人や、ある意味で左右の動きが自由ではないレギーネ・マンデルスらに対して、オスヴァルはある程度自由だった気がする。
と言っても、奇声が舞台真ん中の位置で発せられることもあり、オスヴァルにも何らかの制限があったのかもしれない。
今になって、また確認したくなってきた。

ノーラも左右へは自由に見えたけど、やはり移動の際にはレギーネやオスヴァルという人物に付随した移動が多かったような印象がある。
イプセンの「人形の家」を読んだことがない自分は、ノーラに対して正しいイメージは持てていないと思う。それでもあえて今回の舞台から考えたノーラ像を書くなら、「自立し損なった当時の先鋭思想を持った女性」だろうか。
劇中でノーラ自身がアルヴィング夫人に向けて言った(マンデルスの代弁として言ったのだろうが)束縛に耐えられない、生活の邪魔になるものを気ままに扱っていい荷物のように捨ててしまう、ような女性像に近い印象を何故か受けたのだ。
アルヴィング夫人に非常に近い存在ではあるが、夫人のように縁故関係が舞台の中で存在しているわけではない。
希薄な関係性すら持たないノーラが幽霊のように映ったのも、ある意味では象徴的であるかもしれない。紛いなりにもノーラを覗く登場人物たちの間には、拭い切れない関係が生じている、と。
「人形の家」のノーラとは相当違うのだろう。いや、自分の受けた印象が違うだけだ。

そもそも、ノーラが途中で違う人物が言うはずの台詞を代弁する意図はなんだったのだろうか。人物間の希薄な関係性の表現として、だけではないと思わせる存在感があった。
ただ言えるのは、単純な音の変化として、声が変わる瞬間の場の違和感は心地よい。「私は三日間悔やみ続けました~」というようなレギーネと重なる台詞の音は、特に気持ちの良いものだった。
台詞と声と音、おそらくShelfの朗読会では響きとしての台詞みたいなものを教えているのだろうと勝手に妄想。


また話しが飛んでしまっていたので、構図の話しの続きを。
舞台上の全員の動きはアルヴィング夫人に掌握されていて、登場人物たちは彼女のまわりをうろついているだけ、というようにも考えられた。
その考えに従えば、夫人の腰掛けている椅子の簡素さと、それを隠すような夫人の手の位置が演技を超えて滑稽にも見えてくる。
演技を超えて滑稽という言葉は言い得て妙だが、記号として「あの固定された手は肘掛け椅子に置いていることを表す」と認識している観客の自分には、ノルウェー西部の豪華であろう屋敷内で場を掌握しているアルヴィング夫人の存在と、舞台で簡素な椅子を豪華に見せている役者の存在とが、メタ構造的に揺らいで感じられたのだ。
つまり、舞台の主軸となっている人物の滑稽さすらも希薄な関係性を表現する演出の範疇なのではないかと。そして演出家は、舞台内の役者同士の希薄な関係性や滑稽さを使って、現在観劇している人間同士の希薄な関係性や滑稽さすらもほのめかしている、という考えに肉薄して、装置に取り込まれたような揺らぎを覚えたのだった。
あの椅子は他に良いものが見つからず、ある意味で消去法によって選ばれたものだったと後日に聞いたが、結果的には舞台というストゥディウムを掻き乱す、意図されたプンクトゥムとしての身体を顕した素晴らしいものになったと思う。


冗長に過ぎる文になってしまったが、最後に。
この作品は、表現できる範囲の中で表現を重ねることで、外堀を埋めるように、輪郭をなぞるようにして、遂には表現できない領域の一端までを浮彫りにした作品である、と感じられた。
そんな場を共有できた体験は、希少かつ有益であったと、日を置いた現在も振り返ることが出来る。

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2006年12月09日 11:36に投稿されたエントリーのページです。

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