☆2006年 6月14日 19:00~ 日本陶磁器センター3F会議室
☆「箱男と箱女」写真展関連パフォーマンス:韓国凱旋公演「ファシズム!」
☆演出:寂光根隅的父(双身機関)美術:水谷イズル
双身機関は1995年に演出家・寂光根隅的父(じゃこうねずみのぱぱ)と女優・獅子見琵琶(ししみびわ)を中心に結成されたカンパニー。名古屋を拠点に活動を展開し、舞踏家やアングラと呼ばれた演劇の出身者、現代アート作家との交流も盛ん。彼らの根底に流れる「現代社会を深く強く問う」姿勢は、エンターテイメント演劇が盛り上がりを見せている名古屋にあって、少数派といえるだろう。『現代の日本人である私達は、日本の近代がもたらした歪みの中を生きている。それは政治的問題だけではなく、私達の身体構造にも深く影響を及ぼしている。-中略-ある種歪められた身体と言語に疑問を持たずして、日本人としての自己表現は成立しない』と述べ、『それらを認識し、始源の記憶を呼び起こし現在という時間との狭間で何が可能か?を模索している』(JCDN登録アーティストファイルより)という寂光根隅的父。演劇表現の、身体性に強いメッセージをこめた作品を発表し続けている。
*本作品を見るにあたって、「ファシズム」とは何かを調べてみた。しかし、ファシズムに関する確固たる定理は見つけることは出来なかった。諸説あっても“コレ”だという決定的な説明は出来なかったのだ。…20世紀初頭、あれほど人々から恐れられたものの実体は説明不能で曖昧模糊だというこの事実。ファシズムと結びつき、極端な未来志向を推し進めた未来派が“戦争を人類の唯一の衛生法”だと叫ぶ未来派創設宣言。その中に混ざっている宣言文たちは、今の現代社会そのものを提示していると言ってよいだろう。
午後7時半をまわった時刻。白塗りの顔で、黒いスーツ姿の寂光根隅的父が会場廊下に現れた。会場のドアが開かれ、無言のままのパフォーマンスで「どうぞ。」と促される観客たちだが、足取りは重い。不穏な電子音が流れる会場…。頭部に黒く長い布を巻きつけ、床に裾を垂らした4人の役者たちが中には立っていた。顔のない肉体だけがそこに曝され、肉体以外の情報が存在しない不自然さが、見るものの不安となって広がっていく…。それはまるで「断頭台に連行される罪人を見せられる」そんな光景なのだ。
一人が両腕を縛り上げられたように腕を前に差し出し、腰をかがめ始める。それに呼応してもう一人が空気を突くように、声をあげながら刀を抜くしぐさを行うと、両腕を縛られた者は途端に床に倒れ伏した。興味深いのは“両腕を拘束され、刃で倒れる”者と“刃で奪う者”がそれぞれ同一人物の中で繰り返されたことだった。奪う者と、奪われるものの境界の曖昧さ…。ファシズムという定理が不確定であるとするならば、それはどこにでも、誰にでも誕生しうるものということだろう。ファシズムの基盤が、中間階級によって形成されうるというトロツキー【ロシアの革命家・政治家・思想家】の提起もある。そう考えれば、私たちの多くが自身を“中間階級”だと自覚している現代日本社会において、この発想は他人事ではなくなるかも知れない。
奪われた者たちはやがて、床から静かに頭を下に三点倒立を始める。その不自然な行為は、名前を切り取られた肉体が土に還ることを拒んでいるようでもある。不本意に奪われた自由と魂の、それはささやかな反抗と見ることも出来る。この悲しさ、これがファシズム=不本意に奪うものへの私たちの素直な反応かも知れない。壁面に映し出された出演者の3人の顔の映像が語りだすシーン(水谷イズル作品)では、切り取られた個が時間の枠の外側から(既に命を亡くしたものとして)今、生きている観客たちにその想いを訴えかけた。
ただ1つ、今回の公演に対して希望を述べるのであれば「身体の一部」としての「声」にもう少しのパワーが欲しかった。ワークショップや稽古を通じて鍛えられた身体の強さがそれだけ光っていた、ということの裏返しになるかも知れないが。
ムッソリーニ【イタリアの政治家・ファシズム指導者】はもう、いない。ファシズムの顔は第二次世界大戦の終焉とともに斬首されたのだ。影で暗躍する悪しきリーダーなど不在だ。今、ここに横たわっているのは“名前を切り取られた”私たちひとりひとりであろう。生産性、社会秩序の名の元に個を喪失しながら生きている私たちの中に、その恐ろしい全体主義の怨念の種が生き残ってはいないだろうか。アジア諸国との軋轢が極まりつつある今、ファシズムの語源でもある懐古主義的な“統一”は歪んだ形で復活しようとする気配もある。愛国心が法律化されるのを目前にし、進まない外交や変わらない自分たちの現状を一掃したいとの苛立ちが、国民のひとりひとりに膨らんできてはいないだろうか。悪しきカビのように燻っているファシズムの胞子が噴出するには、あと1つのきっかけさえあれば良いのかも知れない。それは未来派が叫んだ“すべてを否定し、破壊する”叫びだろう。
私たちはここでしっかりと思い出さなければいけない。奪われた者のあの、悲しさを。そして、否定するだけでは何も生まれてこなかったということを。
このパフォーマンスが韓国で行われ、現地でも受け入れられたということは、非常に興味深いことではないだろうか。
文責/Arts&Theater→Literacy:かめだけいこ
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