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shelf AAF戯曲賞ドラマリーディング 『大熊猫中毒』

☆2005年8月25日 19:00~ 愛知県芸術劇場小ホール
☆AAF戯曲賞ドラマリーディング 『大熊猫中毒』
☆演出:矢野靖人/出演:shelf 

 バラバラの方向に立った役者たち。「イスに座って戯曲を読む」という従来の「ドラマリーディング」ではないはじまり…。舞台上には戯曲中に登場する人物たちが、最初からそろっているという状況。このはじまりに立会い、「戯曲の中には、すでに完結した物語が存在している。」ということを改めて感じさせられた。役者1人1人が登場人物をすでに内包し、そこに立っているという事実…本来は演劇の底流に潜んでいる“戯曲台本”という存在を逆手にとって、その構成までを舞台上に置いてしまうというこの試みは、「リーディング」という規定を、かえって新たな可能性に変換してしまっているように思えた。

 うなり声か、単なる発声なのか、「…ウォーーーーーーー…」という低い声が役者たちから発せられ、1人1人の声がひとつの大きな山のように重なった頂点でフッと、止む。ダンスなのか、演劇なのか、無言のままのパフォーマンスが派生しながら舞台は進展。「…カナリヒトケノナイバ・ショニアルイテ…」言葉を解体したようなセリフが発せられたのは開演後、おおよそ15~6分は経過していたであろうか。リーディングと言いながら、本作品はセリフだけを主体としていないらしい。『身体と身体の一部としての言葉との関係、言葉の発生する現場を炙り出す』ということを意識して作品づくりを続けている矢野。その試みが作品のあらゆるところで浮び上がる。  
 役者のセリフだけではなく、ト書きすべてが読まれつつ物語を展開していくという点も、本作品の特徴だったであろう。リーディングとは違う一般的な演劇作品の公演でのト書きと言えば、セリフとセリフを繋ぎながら役者たちを物語の流れの先へ運んでいくというようなイメージがある。しかし本作品でのト書きはそうではない。舞台上、バラバラに立った登場人物たちの中を1人の役者が歩き回ってト書きをぶつけていく。ト書きが次のアクションをうながす原動力になっているという、戯曲の機能が視覚化されたような不可思議さが立ち上がる。橋渡しとしてのト書きではなく、コントロールパワーとしてのト書きが、不気味な在り方を示してくるのだ。
 
  「セリフ」というものの在り方、「演劇」というものの持つ表現力、このことについて、今回の作品はマジメに問い直しをしたのではないかと感じた。

 第6場。主人公ノボルが思いを寄せた祐一郎(女子高生)と星空の下で会話をするシーンは非常に興味深い。ノボルがセリフを言う…と、祐一郎がポソポソと何かつぶやく。観客ははじめ、祐一郎が何かを言ったのかどうかも分からない。そしてまたノボルがセリフを言うと、また祐一郎が何かつぶやく。そうして、やがて祐一郎がノボルのセリフを繰り返しているのだということに観客は気付く。戯曲台本に含まれえなかった新たな物語の可能性さえ感じさせるこのシーンでは、やがてノボルよりも先に祐一郎のつぶやきがノボルのセリフを語りはじめる。これは「戯曲」という完成した世界があるということを明示した冒頭の伏流があって、クッキリと示される点であったように思う。

 戯曲の構成・セリフ、これらの在り方に対して真正面から挑み、問い、その結果として新たな表現世界を切り拓いた今回のshelf公演。366.0プロジェクトの一環として2006年11月30日から12月2日まで、名古屋:七ツ寺共同スタジオで 「構成・イプセンーComposition / Ibsen」が上演される。
 名古屋の地においてさらに新たな演劇の可能性を提示してくれることに期待をしたい。

  文責/Arts&Theater→Literacy:かめだけいこ


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 http://www.land-navi.com/backstage/topic/2005/8/aaf/index.htm

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